戦前にあって戦後になくなった、かけがえのないもの

今はお盆

 

私のSNSのタイムラインでは、石川・岐阜・徳島などの盆踊りの景色を見ることができ、全国各地でご先祖さんの供養が行われているのだなぁ…としみじみしています。

 

 

8月は、

8/6の広島の日

8/9の長崎の日

という、我が国にとっては忘れられない2日間があることに加え、お盆の月でもあることから、いつも以上に「命」や「血のつながり」や「日本人としての在り方」などを考える時間が多くなります。

 

 

メディアでもネットでも、戦争の話題を取り上げる機会が増えます。

 

 

 

 

今や、義務教育ですら

「グロテスクな写真は子どもが怖がるから」

と、とんでもなくトンチンカンなことを言って戦争の事実を伝えようとしない時代

 

戦時中の映像など、本来ならば年中どこかのテレビ局がやっていてもいいくらいのことだと思うのに、どうしても季語のようにこの月にしかメディアは取り上げないのが不思議でならないのだけど、まぁ、それはちょっと置いといて。

 

 

 

 

今年は戦後72年

 

今さら始まったことではないけれど、戦争体験のある人たちは年々少なくなってきています

 

 

身近な人からはもちろん、メディアからでさえもリアルな話は伝わってこなくなってくることに危機感を覚えるのは、戦後教育でかなり歪んだ歴史を学んできたことを実感しているからでもあります。

 

 

 

 

私は、食のことを伝える活動をしていますが、「食」というものを通じて、日本人を誇り高き民族にしたい!という強い想いがあります。

 

 

美意識が高く、

思いやりがあって、

適切な恥じらいもあり、

いつも冷静で、

目に見えぬものを大切にし、

志も高い。

 

まさに、戦前の日本人の姿です。

 

 

 

 

日本人は、これまで世界で多くの偉業を成し遂げてきました。

 

親日家の国が多いのもその現れです。

 

それは戦時中とて同じです。

 

 

でも、それを現代人はあまりにも知らなすぎる

 

 

 

隣国が未だ「慰安婦がどうの」と叫んでいることも、メディアが取り上げれば真実かのように受け取る人もいる

 

 

核だ!ミサイルだ!とざわついているというのに、それでもなお「戦争反対!」と唱え続ける

 

 

日本国を、日本人を、骨抜きにすることを目的としてつくられた憲法であることを知ってか知らずか、「第9条は守るべき!」と叫び続ける

 

 

 

このことに違和感はないのだろう

 

 

 

 

かくいう私も、少し前までは無知すぎた

 

 

お恥ずかしいことに「戦争反対!」「集団的自衛権放棄!」と思っていた

 

 

 

大東亜戦争のことを太平洋戦争・第二次世界大戦と言っていたし、(「大東亜戦争」以外にも、戦勝国によって禁止にされた言葉はたくさんあります)

 

特攻隊で命を落とした若き人々をかわいそうだと思っていたし、

 

アジア各国で、日本人兵士はたくさんの人たちに残虐なことをしてきたと思っていた

 

日本という国は、なんてひどいことをしてきたんだと思っていた

 

 

 

でも、その精神こそ戦勝国が望んだ日本人像だったと気づいたときは愕然としました

 

 

見事に戦勝国の思惑どおりになっていたのです

 

 

ご先祖さんに心の底から詫びました。

 

 

 

皇室のことを知ろうともしなかったし、

 

日本という国の歴史も何も知ろうとしていなかった

 

 

今日 8月15日のことは、ずっと『終戦記念日』だと言っていて、正しくは、『戦没者を追悼し平和を祈念する日』だということも知りませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

ツイッター高須克弥氏が

「特攻隊は美しい」

と表現されているのを拝見したけれど、少し前の私なら嫌悪感を抱いていたはず

 

 

 

でも、今はわかります

 

 

というより、私もそう思います

 

 

 

 

以前、知覧から飛び立った兵士の手紙を拝見する機会がありましたが、それに限らず、特攻隊員が残した手記はいずれも胸を打たれます

 

 

志が高いからです

 

 

 

「特攻隊の姿が美しい」と言うと反論されるかもしれないけれど、でも、我が身を投げ打ってでも国を守ろうとする意志は、残念ながら多くの現代人にはない

 

 

「政治家はどうせ逃げるんでしょ?」

「こんな国のために死ぬなんてごめんだ」

「我が子を戦争になんて行かせたくない!」

そう思うこと自体がもう骨を抜かれているのかもしれないと思う

 

 

そこまでして国を愛している若者が、今の日本のどこにいるだろうか?

 

国を守るために我が子に「おめでとう」と声をかけて送り出す親が、今の日本のどこにいるだろうか?

 

 

 

「そう思わされるような教育をされてたんだ」

と言う人もいるでしょう

 

実際、「(現在、米国と危険な関係になろうとしている)彼の国みたいだ」と言ってる人もいます

 

 

 

そう言って、日本にいながらにして反日のようなことを言ってしまうこと自体が “つくられた日本人” ということなのだけど、もし仮に洗脳のような教育をされてきたなら、彼の国の脱○者のように、日本に嫌気がさして国を離れる人が多かったはず

 

 

 

でも、そんな話は聞いたことがありません

 

 

いや、むしろ、現代人のほうが洗脳のような教育を受けてきたし、その結果、日本という国に嫌気がさしているのではないでしょうか?

 

 

 

そもそも日本人は、この日本という国を心から愛し讃えていたと思えてなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

明日、京都では五山の送り火が行われます

 

 

お盆の時期にこちらの世界に戻って来られていた死者の霊をあちらの世界にお送りするための行事です

 

 

本来ならば、静かに手を合わせてご先祖さんを想う時間

 

 

ところが、実際は、

「わー!点いた!点いた!!」

と拍手をし、やれ煙が溜まっているだの、次はどの送り火に火が点いただのとしゃべってばかり…

 

 

20〜30代の若者ならまだしも、50〜60代の人たちでも拝む姿は見られない

 

完全に戦後教育を受けてきた世代の人たちだから、そうなるのも仕方ないのかもしれません

 

 

 

少し前に長岡花火と祇園祭に見た「お天道様」の存在 - やもりなおみの「食べること。暮らすこと。生きること。」でも書きましたが、

 

命のつながりを大切にすること

ご先祖さんを敬い感謝する気持ち

自分を律すること

今いることに自信と誇りを持つこと

日本という国に生まれたことに対する感謝

相手や周りを察すること

 

もしかしたら、今後は高齢者と呼ばれる人たちでさえこれらを失ってしまうのかもしれません

 

 

 

祝日に国旗を掲げる家は全国にどれほどあるのでしょうか?

 

 

 

つい先日も、facebookで目上の人に対する言葉づかいに関して投稿したばかりですが(コメント)、せっかくの美しい日本語も、理解して話せる人が確実に減ってきているのを感じます。

(小さな子どもに英語を学ばせるより、まずは日本語を!!!)

 

 

 

考えれば考えるほど、現代人は多くのことを失ってきたことに気づかされます。

 

 

「時代の流れ」という一言では片付けられません。

 

 

 

 

 

戦争で多くの命を亡くした事実は悲しいことだし、辛いこと

 

 

だから、2度と戦争は起こしてはいけない

 

 

ならば、これまで日本国が辿ってきた真っ当な歴史を学ぶべきだと思います。

 

 

戦争のことについてもっともっと学ぶべきだと思います。

 

 

 

 

残念ながら義務教育では得られません

 

テレビをはじめとするメディアでも得られません

 

 

大衆が簡単に情報を得られる手段は、ほぼほぼかなり偏っているからです。

 

 

学ぼうと思わなければ学べません

 

 

 

 

我が家には、幸いこのようなカレンダーがあります

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学校からも親からも教えてもらえない、

我が国の歴史

天皇家の歴史

などがわかりやすく書いてあります

 

 

 

 もし、これから日本について勉強したい!と思うなら、まずは古事記を読むことをオススメします。

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先日、鳥取のホテルで偶然見つけて感動しました

 

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 「日本人としての誇りを再発見しようとしている傾向がありますが、日本のことを知ろうとしたら『古事記』を読むのが一番よい」

 

 

とはいえ、私もまだまだ勉強中です

 

 

美しい日本語も使いこなせている自信なんてないし、日本のことも知らないことばかり。

 

 

1人の日本人として

1人の親として

後世に、この日本の素晴らしさを伝えていくためにも、学んでいきます。

 

 

お出汁を飲むと塩分過多・味覚障害になるか?という質問に対する回答

私の講座の1つ、『お出汁の会』では、

「お出汁をお茶代わりに飲んでくださいね」

とお伝えしています。

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先日の鳥取でのお出汁の会の一幕。削り方をすぐにマスターしていたお子さま。

 

 

 

その栄養価を考えると皆さん納得されるのですが、講座中の試飲では、毎回濃いめのお出汁を用意しています。

 

 

 

 

すると、時々、

「こんなに濃いお出汁を毎日飲んでいると塩分過多になりませんか?」

という質問を受けます。

 

 

昆布も鰹節も煮干しも海のもの

塩分を感じて当然で、その塩分を気にされての質問です

 

 

 

濃いお出汁は、塩や醤油を入れなくても十分美味しいものです。

 

 

調味料を加えなければさほど問題視することでないと思っています。

 

 

 

 

そして、もう1つ。

 

「こんなに濃いお出汁を毎日飲ませて、子どもが味覚障害にならないか?」

という質問も時々受けます。

 

 

 

先の質問と同様、調味料を入れなければまったく問題ないと思います。

 

 

 

「濃いめのお出汁」は、何が濃いのか?というと、「旨味が濃い」のです。

 

 

調味料が多く入っていることを指すのではありません。

 

 

旨味の中には私たちのカラダやココロを整えるために必要な栄養たちがたっぷり含まれています。

 

 

味覚障害は、栄養不足からも起きます。

 

 

栄養満点のお出汁を飲んで味覚障害になるどころか、味覚が整ってきます。

 

 

 

というより、そもそもなぜ濃いめのお出汁の試飲を講座の項目に入れているか?ということですが、、、

 

 

それは、日々のお出汁生活を楽チンにするための工夫の1つとしてお伝えしていることももちろんあります。

 

 

ですが、私たち現代人…  特に大人は、本物の「旨味」を感じにくくなってきているからです。

 

 

理由は2つ

 

①小さい頃から化学調味料に慣れ親しみすぎていること

 

②外食が日常化していることにより、濃い味付けに対抗がなくなっていること

 

 

 

 

「旨味」というのは人工的につくることができます。

 

 

しかし、それはウソの旨味であることは味覚を研ぎ澄ませればわかることなのですが、カレーやシチューのルーや焼肉のたれ、ソースやケチャップやドレッシング、その他、レトルト食品、インスタント食品、お菓子などを小さい頃から食べていれば、ウソの旨味と本物の旨味とが区別できなくなります。

 

 

市販のソースやケチャップや白だしなど、化学調味料が入ったもので味付けをすると途端に単調な味になるのに、それを「美味しい!」と思ってしまっている。

 

 

本物の旨味は複雑なものなので、後から後からジワジワと感じるのです。

(だからテレビでよく見る、2〜3回噛んですぐに「美味しい!」と言ってるものはほとんど化学調味料の味か調味料の味だということがわかりますね)

 

 

 

カラダに栄養が足りていない時は、調味料を入れていないお出汁であっても濃いめのお出汁を美味しいと感じます。

 

 

しつこいようですが、旨味には栄養がたっぷり入っているからです。

 

 

 

だから、私の講座では、

「濃いめのお出汁が美味しいと感じるあいだは、しばらく濃いめのお出汁を用意するといいですよ」

とお話しします。

 

 

足りていないものを満たすためです。

 

 

 

満ち足りてくると、濃い旨味がしつこく感じるようになるので、そしたら薄くしていけばいいのです。

 

 

化学調味料 特にグルタミン酸ナトリウムは、旨味をプラスするだけでなく、味をまろやかにする作用もあります。

 

塩分が入ったものでも甘く感じるように仕上がることができるのです。

 

 

 

塩を舐め続けることはできないけれど、多くの人は砂糖なら舐め続けることができます。

 

 

ケーキバイキングというものがあったり、プリン→チョコレート→アイス→ジュース と、甘いものの無限ループでも平気な人が多いことが何よりの証拠ですね

 

 

 

そして、まだまだ根深い「減塩神話」

 

 

塩気が多いことは気になるけれど、人工的に甘く感じさせられていることは気にならない・気づかない人がたくさんいます

 

 

 

塩気が多いことだけを

「味が濃い」

と言う人はいるけれど、砂糖をはじめとする甘味の使いすぎも当然のことながら

「味が濃い」

と表現できるのです

 

 

 

 

調味料の使いすぎーーー

 

多くの飲食店の味付けは「濃い」です

 

 

お酒が置いてあるお店はお酒のオーダーにつなげるためでもあるけれど、ほとんどは、素材そのものの味がないので調味料の味でごまかすしかない状態

 

 

『原価』というものを意識せざるを得ませんから致し方ないことかもしれません

 

 

 

でも、その外食の味に慣れてしまうと、家庭の中も濃い味付けになってしまう。

 

 

しっかり味付けをしたものでないと「美味しい」と感じなくなっているのです

 

 

 

本物の旨味・本来の美味しさというのは、化学調味料のように単純ではなく、調味料の味ほど強くはありません

 

 

 

本物の旨味を感じてもらうため
不足した栄養を補ってもらうため
という大前提はありながらも、

普段から強い味を口に入れる機会が多いであろう人たちに

「美味しい!!」

を感じてもらうためにも、お出汁の会では濃いめのお出汁を試飲してもらっています。

 

 

 

味覚はつくっていくものです

味覚は育てていくものです

 

 

これまでウソの旨味を美味しいと感じてきたなら、その味覚もつくられ、育てられてきたのです。

 

 

本物の旨味を感じられる味覚を持つ人を増やすために、お出汁の会はじめ、『5つの魔法の調味料講座』『手づくりベーコンの会』『肉フェスー牛肉解体ー』などの講座やイベントを行なっております。

 

 

8/21は、福岡でお出汁の会と魔法の調味料講座

8/26は、富山でお出汁の会と栄養学講座

10/7は、東京で肉フェスー牛肉解体ー

10/28は、広島でお出汁の会と魔法の調味料講座

をやります。

 

講座の詳細はこちら→やもりなおみイベント情報&オンライン講座メニュー

 

 

 

と、なんだかヤラシイ終わり方になってしまいましたが(^_^;)

 

 

まぁ、とにかく、

塩も何も入れていないお出汁を常飲したところで塩分過多にも味覚障害もならない

 

それより、世に出回っている多くの加工品や常々利用している外食を避けた方が、塩分過多や味覚障害という不安はなくなりますよ

 

というお話でした。

 

 

 

ホテル日航新潟のファンになった4つの理由

先日、新潟に4泊ほどしました

 

そのうち、最後の2泊の宿泊先を『ホテル日航新潟ホテル日航新潟【公式】|日本海側随一の高層ホテル』にしたところ、素晴らしく感動した点がいくつかあったのでご紹介します。

 

 

 

①朝食・夕食のブッフェのサラダが塩と酢とオイルだけで食べられる

 

私の家にはドレッシングがありません。

サラダを食べるときは塩とオイルが基本で、時々そこにレモンを絞ったり胡椒をかけたり。

 

でも、外食時はサラダにドレッシングがかかっていることがほとんどなので、抵抗せずに食べてます。

 

ブッフェだったとしても、だいたいドレッシングが添えてあるところがほとんどなので、持ち歩いている塩をかけて食べるか、塩を忘れたときはドレッシングをかけて食べています。

 

なぜ家でドレッシングを使わないかというと、まず甘い(^_^;)

 

塩と油だけで充分美味しく食べられるのに、なぜ甘くするのか私には意味がわかりません…

 

そして、砂糖ならまだしも、異性化糖で甘みをつけてある場合が多いからなるべく避けたいという気持ちもあります。

 

ドレッシングをボトルごと用意してなければ原材料も見れないし…

 

外食する場合は、原材料だけでなく、それ以外のことも諸々無視して食べています。

 

だからイチイチ気にすることはないけれど、もし、ドレッシング以外で食べられるようにしてもらっているなら喜んでそっちを選びます

 

だから、このホテルのブッフェに、塩と胡椒が入ったミルと、ワインビネガーと、オリーブオイルのボトルが並んでいるのを見た時は

「おぉ!Lucky☆」

と思わずガッツポーズをしたくなるほどでした。

 

家での食べ方とほぼ相違なく外で食べられるなんて夢のようです。

…というと大袈裟に聞こえるかもしれませんけど、世間を見渡すとドレッシングもタレもソースも何でもかんでも甘いから時々うんざりすることがあります。

 

塩と酢とオイルだけでサラダが食べられるお店がもっと増えて欲しいなぁ…と思います。

 

 

 

 

②朝食の海苔が焼き海苔である

 

まぁ、これもちっぽけなことではありますが、私にとっては結構な重要ポイント!

 

ブッフェでも定食スタイルでも、だいたいのホテルの朝食には海苔がついてきます。

 

『御海苔』と書かれた個包装の海苔を開けると味付だった…というケースは割と多いです。

 

普段からおやつとして持ち歩いている海苔は焼き海苔だし、家でも焼き海苔でご飯を食べている身としては、できることなら外でも焼き海苔が食べたい。

 

…とか言いながら、添えてあれば味付でもいただきますが。

 

我が家では娘の希望で海苔巻きにすることがよくありますが、味付きだと、海苔巻きにする人間もそれを食べる人間も手がベタついてしまうので、添加物云々以外にも避けたい理由はあるのです。

 

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焼き海苔と味付海苔

特段ホテルのものと限らずに見ると、味付海苔は味がついているだけあって海苔の味がわからない…

 

どんな食べものも、濃い味付けが必要ということは素材の質があまり良くない場合が多いのです。

 

それを証拠に、味付海苔の中にはうっっす〜〜〜〜〜くて緑がかったものがあったりします

 

でも、個包装のものでも焼き海苔に緑のものは存在しません。

 

焼き海苔は、ほぼほぼ真っ黒で分厚い。

 

たとえ一番肝心な「海苔」の使用量が少なくても、味さえつけておけば “美味しく感じる” ようにつくられているのです。

 

焼き海苔はさほど誤魔化しがききません。

 

私はしっかりとした海苔が食べたいので、味付海苔より焼き海苔を歓迎したいのです。

 

 

 

 

③ノンカフェインのハーブティーが飲める

 

ハーブティーが飲めるお店は増えたけど、それがノンカフェインというお店はまだまだ少ないのが現状です。

 

ハーブに紅茶葉がブレンドされているものが多く、ハーブティーを指差して

「ノンカフェインですか?」

と尋ねると、首を横に振られるパターンは意外と多いのです。

 

私はカフェインが苦手で、普段からなるべく避けるようにしています。

 

カフェインをとると必ずカラダが反応します。

 

…とか言いつつ、何年か前までは普通にコーヒーも紅茶も飲んでいたし、1日5杯くらい飲んでた時期もありました。

 

今考えるとゾッとします…

 

「へぇ〜 カフェイン苦手なんだ… ふ〜ん」

と思ってこれを読んでいる人でも、実はカラダは歓迎してないという場合はたくさんあります。

 

カフェインは中毒性があるので麻痺しているのです。

 

カフェインもアルコールも砂糖も、やめるように言うと、逆ギレする人がいたり、

「じゃあ○○なら取ってもいいですか?」

「じゃあ、1日これくらいに減らせばいいですよね?」

とか言って、抜け道を探す人が多いことでもその中毒性がわかるかと思います。

 

1日5杯も飲んでいたときは、たしかにストレスの多い日々を過ごしていたときです。

 

カフェインのチカラを借りないとカラダが動かなかったのでしょうね。

 

まぁ、その辺の話は8/26 富山で開催予定の『オカンのための栄養学』でお話するとして…(申込→8月26日 やもりなおみさんのおかんのための栄養学講座

 

とにかく、カフェインを一切取らなくなると取ったときのダメージがよりハッキリわかります。

 

これは、アルコールも砂糖もグルテンカゼインも同じことです。

 

私はそれがわかったから、可能な限りカフェインを入れない生活をしています。

 

そんな私にとって、このホテルのブッフェのハーブティーは、ハーブ単体で用意されているものがあって本当に助かりました!

 

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 1日目はカモミール&ミント

 

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2日目はミント&アップルピース(ドライアップル)

 

おかげさまで体調を崩すことなく過ごせました☆

 

 

 

 

④納豆が小粒じゃない

 

これも海苔と同じく、人によってはちっぽけなことなのかもしれませんけど、私にとっては結構嬉しい!

 

ホテルの朝食についてくる納豆に、米粒ほどの小粒納豆があります。

 

噛み応えがないので豆の味がしない…

 

納豆は、やっぱり中粒か大粒に限ります。

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世間で売られている水煮大豆は大豆らしい大きさなのに、「納豆」という加工品になるとどうしてこうも小粒が多いのか不思議でなりません。

 

大粒大豆はコストがかかるの?

小粒大豆は納豆以外の使い道はないの?

乾燥状態の小粒大豆を見かけないのはなぜ?

とか考えると、なぜ納豆だけが小粒大豆なのか本当に謎に思えてきます(^_^;)

 

美味しくないのにw

 

梅干しも塩だけでつくられているものは少ないし、お味噌も醤油も減塩とか言いながらやたら添加物だらけにされていたり、たくあんだって絵の具の黄色とほぼ一緒だし、「無添加だし」って書いていながら蛋白加水分解物やらナンチャラエキスとかちゃっかり入ってるし…

 

本来、日本人はこういうもので命をつないできたはずなのに、伝統的なこれらがどんどん姿を変えていく…

 

なぜ、昔の姿のままではいけないのでしょうか?

 

そんなに、日本が消費しないといけないナニかがあるのでしょうか?

 

そんなに、かなりの工程を簡略化して量産しないと足りないのでしょうか?

 

 

まったくもって謎だらけです

 

 

だからこそ、私は今の活動をしているとも言えるのですが(^_^;)

 

 

 

現状を嘆いてばかりでは何も前には進まないから、このホテルのように私たち利用者のカラダのことを考えてくれる場所があるなら全力で支持したいのです!

 

 

外食では、美味しいより、カラダのことより、まずは楽しさを!

と思っていても、やっぱりこういうお店が増えてくれると嬉しいものです。

 

 

全国にあるすべてのホテル日航のブッフェがこうなのかはわからないけど、こうであって欲しいという望みは大いに持てるし、利用してみる価値はあると思っています。

 

 

少なくても新潟に行ったときはホテル日航を利用したいと思いました。

 

 

 

今回は食べものに関するものばかりでしたが、ホテルの従業員さんも素晴らしいホスピタリティを持った対応をしてくださいました。

 

新潟での宿泊は、ぜひホテル日航新潟ホテル日航新潟【公式】|日本海側随一の高層ホテルを。

赤ちゃんのうつ伏せ運動は必要か?

赤ちゃんは、生まれてきたときは腕も脚もまだまだ骨は柔らかい

 

首なんてヘニャヘニャで、頭と首とを支えてあげなければ危険だ

 

 

 

馬や牛など動物の子は生まれたその日のうちに立ち上がって歩きだすけど、人間の子は長い時間をかけてカラダをつくっていく

 

それは当然のことであり、何らかの手によってそれを早めたりするものではないと解釈している

 

 

 

けれど、時々子どもの身体的な成長を早めようとする大人を見かけてヒヤヒヤすることがある

 

 

たとえば、まだヘニャヘニャの赤ちゃんをうつ伏せにして首を鍛えようと運動させること。

 

 

先日もSNSで見かけた

 

 

生後1ヶ月くらいの赤ちゃんがうつ伏せにされて頭を一生懸命あげようとしている

 

「がんばってます!」と書いてあった

 

 

 

 

 

頭を支えるために必要な筋肉や骨が発達すれば、赤ちゃんは勝手に寝返りをする

 

まだ寝返りをしないということは、頭を支えるために必要な筋肉や骨がまだ未熟だということだ

 

 

でも、それをなぜか待てない大人がいる

 

本人のペースに任せられない大人がいる

 

 

 

おそらく、成熟するまでの時間を短くすることで親をはじめとする周りの大人は安心したいのだと思う

 

「あぁ、ウチの子は大丈夫だ!」

「この子は “ちゃんと” 育ってる!」

と。

 

 

早く自分たち大人と同じ状態にもっていきたくて、それが一番良いことだとも思っているかもしれない

 

大人の姿が完成形だと捉えているのだろう

 

 

かなり歪んだ見方だとは思うけど、早く結果を見たがってる・早く安心したがってるように思えてならない

 

 

 

 

でも、結果は早ければいいとは思わない

 

 

動物も人間も、早く成長すればいいとは思わない

 

 

カラダに無理をさせることによって生じる危険性も大いに孕んでいるはず

 

なのに、うつ伏せ運動を推進している病院や自治体などの団体はそれを伝えない

 

 

 

かくいう私も、娘の1ヶ月検診のときにうつ伏せ運動を勧められて生後3ヶ月くらいのときにやったことがある

 

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2〜3回やっただろうか…

 

やったものの、何となく違和感があった

 

 

これはもしかして余計なことなんじゃないか?

本人がこの体勢を求めているなら、勝手にこの体勢になるだろうに、それを大人の手によって無理やりさせることは、本人には苦痛なんじゃないだろうか?

本人の成長に任せておけばそのうち首もすわるだろう

未熟な時間なんて、この子の人生では点みたいなもの。

それを今楽しまなくてどうする?!

この子の成長を心から信じて見守るのは、この子の一番近くにいる私が誰よりも適任じゃないのか?!

 

と自問しました

 

 

 

 

当時の私としては、成長した娘を早く見たい!とか、それによって早く安心したい!などの自覚はなく、ただ「検診のときに言われたから」という、ただ盲目的にやったけれど、結果的に同じことをしていたわけで、今となっては「しんどかっただろうに…  かわいそうなことをしたな…」と反省要素の1つになっている

 

 

 

こういう、赤ちゃんのカラダに無理をさせるようなことが定着しているのは、きっと、共働きの家庭が主流で、生後半年から子どもを預けて働きに出る女性が増えたことにより、

「早く手がかからない状態にした方が助かる人が多い」

という、ある意味 ニーズとして捉えられているのも理由の1つのような気がする

 

 

 

すべては大人の都合

 

 

それによって、言葉もしゃべらず表現力の低い赤ちゃんたちのカラダは無理を強いられているのではないだろうか?

 

 

たとえ実害などはなくても、未熟な時間も楽しめる、余裕のある大人たちで子どもたちを守り支えていければと思う

 

 

 

まだ脚も腰もフラフラなのに手をつかんで歩かせようとしたり、1人でお座りできないのに座れる椅子や歩行器を使ったり…

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ネットから拝借

 

 

 

もし娘が自分の子にしていたら、

寝返りできるカラダになったら勝手にするし、お座りできるカラダになったら勝手にするし、立てるカラダになったら立つし、歩けるカラダになったら歩くねんからそっとしとき!!

親のあんたがこの子を一番に信じてあげへんかったらどうすんの!?

あんたの子やから大丈夫!

焦らんと待ってあげて!

と言うだろう

 

 

 

ジッと寝ることしかできなかった子が手足をバタバタさせ、布団の上をグルグル回るようになり、全身を使って「よいしょ!」と寝返りをし、腕の筋肉がついてきて少し前後に進むようになり、気づいたら座って遊んでいたり、つかまり立ちして…

 

人間の子どもは本当にゆっくりゆっくり成長していくから、忙しい現代人にはじれったいところもあるかもしれないけれど、時間をかけるからこそ整うものがあると思っている

 

 

 

 

何でもかんでも大人の頭で考えたことが正解とは言えない

 

机上の空論ということは往々にしてある

 

というより、むしろ、我々大人にとって子どもは先生

 

たしかに大人がサポートしていく場面もあるけど、子どもから学ぶことは予想以上にあるわけで…

 

 

 

私たち大人が子どもにできることは、あれこれと先回りして手を打つことではなく、たとえ手を出したくなる瞬間があってもジッと耐えて、子どもが一生懸命成長しようとしている様子を見守ることだと思う

 

 

生後数ヶ月であろうが、成人になろうが、人の親になろうが、

「あなたならできる!大丈夫よ!」

と、いつでも言える親でありたい。

 

 

長岡花火と祇園祭に見た「お天道様」の存在

先日、貴重なご縁をいただいて、新潟の長岡花火を観覧する機会に恵まれました。

 

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長岡花火は、噂どおりの素晴らしいクオリティーで、観ている私たちを一瞬たりとも飽きさせず、すっかり魅了されてしまいました。

 

 

特に、多くの人から「泣くよ」と言われていたフェニックスという、平原綾香さんの曲に合わせて広範囲で繰り広げられる花火は言葉を失い、代わりに涙が溢れました。

 

 

 

長岡花火というのは、大東亜戦争で焼け野原になった長岡市の復興と、戦争で亡くなった方々の慰霊を込めて復活したお祭りらしく、今年で70年になるということ。

 

それゆえ、白菊と名付けられた尺玉3発が初めに打ち上げられます。

 

 

 

 

戦後70年以上が経ち、戦争体験者が少なくなってきた現代において、このようなお祭りによって「戦争」というものが後世にまで伝わり続けていることは、とても貴重なことだと思います。

 

 

到底 話し合いなどでは理解してもらえないであろう隣国が核だのミサイルだのとざわついているにも関わらず、「戦争反対!」といつまでも訴え続けるのはまさに平和ボケであり、これまでの歪んだ学校教育が生んだ結果とも思ったりしますが、

 

とはいえ、今ある平和や幸せを心から有り難く感謝する機会が身近にあることの素晴らしさを感じることができました。

 

 

 

 

会場に着いた頃は心地よく吹いていた風も、花火がスタートした途端に止み、打ち上げられる花火の周りには少し煙が溜まってしまったのですが、周りに座ってらっしゃった、おそらく地元の方だと思われる数人の方が、

「煙が溜まってしまってるね… かわいそうに…」

「悔しいだろうねぇ…」

と、花火師さんはじめ、お祭り関係者の心を察した言葉を口々に話されていたのを聞いて、

「関係者だけでなく、地元市民も全力でこの長岡花火の成功と伝承を心から願っているのだなぁ…」

と感じました。

 

 

これは、お互いに、相手に対する尊敬と感謝が根底になければ成り立たない

 

 

関係者も、観覧者も

「おかげさまで無事に今日を迎えることができました」

という思いが根強いはず

 

 

このネット社会において、この関係性は本当に理想だと思いました。

 

 

 

 

花火が終わり、歩行者天国になっている道路を駅まで歩いていると、3〜4階ほどのビルの屋上から子どもたちの声が聞こえてきました

 

 

よく聞くと、

「今年も見に来てくれてありがとう!また来年も来てくださーーい!」

と手を振りながら叫んでいたのです

 

 

 

なんという自尊心の高い子どもたちなんだと驚きました。

 

 

 

きっと、長岡花火の歴史を周りの大人たちから聞いていて、きっとおじいちゃんやおばあちゃんたちとのつながりも強いのだろうと想像しました

 

 

普段から、「あなたが今ここにいるということはね…」と、ご先祖さんの存在を意識できるような親からの語りかけがないとできないこととも思いました。

 

 

 

花火を観て心が震え、地元の方々の姿を見てまた心が震え…

 

私も1人の人間・1人の親としての姿を見直す貴重な機会となりました。

 

 

 

 

京都には祇園祭というお祭りがあります。

 

無病息災を願うお祭りです。

 

 

山鉾巡行が行われ、

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その後、八阪神社の神々が祀られている三基のお神輿が練り歩くのです

 

 

 

お神輿の担ぎ手は何百人ともなり、その何百人もの人たちの指揮をとるために拡声器を使って掛け声をかけながら担いだり練り歩いていきます。

 

 

 

しかし、そのうちの一基が通るある商業地区の一部のお店から

「うるさいからお神輿が通るときは拡声器を使わないで欲しい」

との声が出たそうで、今年からその一帯を通る際はマイクを使わずに通ることになったという話を聞き、ショックを受けました。

 

 

 

あの掛け声は、大人数をまとめるためでもありながら、遠くの人に

「お神輿が来ましたよ」

というお知らせも兼ねているのです

 

 

その拡声器での声をきっかけに、住人たちは外に出てお神輿を拝むことができます

 

 

実際に、お神輿が通るのを待って、手を合わせて拝んでらっしゃる年配の方の姿があります

 

 

 

小さな頃から、何かと言うと

「神様はちゃんと見守ってくださってるからね」

とか

「誰が見てなくても、神様からは見られてるよ」

と言われて育った私は、

『神様によって守られてきた私たちの命に感謝をし、今後も無事に命をつないでいけるよう祈願するのが神事』

と認識しています

 

 

 

それを、「うるさい」という感覚で捉える人がいることに大変なショックを受けたのです。

 

 

 

言葉を選ばず書くならば、

「うるさいとは何たることだ!誰のおかげで今の命があると思っているんだ!」

というのが正直なところです

 

 

ですが、幼い頃から親をはじめとする大人たちからの語りかけがなければ、神々の存在を周りにお知らせする声とて違和感になってしまうこともあるかもしれません

 

 

 

 

そして同時に、もしかしたらそれを楽しみにしている人がいるかもしれないのに、反する言い分をすんなり受け入れた神社側にもある程度の憤りを感じました

 

「そんなときこそお祭りの目的や真意を伝えるときじゃないの?!」

「これによって多くの人にお神輿の存在を知らせることができるから止めることはできないと一蹴してしまえばよかったのに…」

と。

 

 

 

しかし、真相はわかりません。

 

 

本当は神社側も何度も交渉されたかもしれないし、お祭りの歴史や存在意義を説明されたかもしれない

 

 

それに、どんなものでも時代に合わせて少しずつ変化していくのは世の常で、今後もお祭りを存続させるためには必要な苦渋の決断だったのだろうとも察します

 

 

 

 

しかしながら、我々日本人は、

「お天道様が見ているよ」

という教えを元に育ってきた感覚があります

 

だからこそ、思いやりがあり、冷静で、穏やかで、他者の気持ちを察することができる国民で、世界では珍しく「自然あっての人間」という考え方ができる民族でもあります

 

 

見えないものを大切にする気持ち

見えないものを敬う気持ち

 

それは、自然であったり、先祖であったり、神様であったり…

 

 

そこに思いを馳せることができるかどうかが、個人の豊かさにつながるような気がしてなりません

 

 

 

この夏のお祭りで、両極端のことを経験しました

 

 

今を生きる人間として、

次世代と暮らしている親として、

今後どう立ち振る舞うのか?

 

大きなきっかけとなりました。

 

 

何はなくともお出汁があれば人は元気になっていく

先日 完全クローズドで、子育てママたちのためにお昼ご飯をつくりに静岡まで行ってきました

 

 

だし巻きやら唐揚げやらフォーなどのリクエストがあったので、最初は鶏づくしにしようかと思ったり、

「まぁそんなのは関係なしで調達できた食材で適当につくるか!」

とか思ったりしてましたが、途中で、参加メンバーのほとんどが妊婦さんだということが判明し、いろんなお出汁を味わってもらう時間にしようと決めました

 

 

 

昆布と鰹節のお出汁と鶏がらスープの他に、子牛のスネ肉を輪切りにした骨つきも使って。

 

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 野菜もたっぷり!

 

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 骨から簡単に外れるくらいホロホロに。

 

 

 

なぜお出汁か?というと、

 

それは、

栄養の吸収が良いから。

 

 

 

お肉やお魚や野菜から抽出された成分は、とても分子が細かく、胃腸にも負担が少ない

 

 

胃腸への負担が少ないということは、カラダに吸収されやすい状態だということ。

 

 

吸収されやすい状態ということは、吸収された栄養がカラダをつくる材料になりやすい、もしくは、炎症などの修復にも回りやすいということ。

 

 

 

 

小麦ものが多い現代

咀嚼力が弱い人が多い現代

胃酸過少な人が多い現代

 

「人は、食べたものでつくられている」

とは言えなくなってきています

 

 

 

 

「人は、消化されたものでつくられている」

と言ったほうが、現代にはしっくりくるでしょう

 

 

 

それほど、消化吸収とは大切なプロセスなのです

 

 

 

 

しかし、胃腸に負担がかかる食事内容や食事の仕方をしていると、消化吸収能力はどんどん落ちてきます

 

 

 

日本人でしっかり胃酸が出ている人なんて一握りじゃないかと思うくらい少ないのに、

「胃がもたれる」

「油っこいものが食べられない」

と言うと、胃酸抑制剤が処方されてしまったり、市販のサプリメントにも何の目的なんだか同様の作用があるものが入っていたりする

 

 

 

ただでさえ野菜の栄養価が低くなってきている時代なのに、人間のカラダという受け皿の機能が低下していては、吸収できる栄養の量も種類も、そしてそれを合成するチカラも減って当然

 

年齢性別問わず、あらゆる不調が出てきて当然

 

 

だからこそ、お出汁なのです

 

 

 

「昆布と鰹節で引くお出汁が美味しくない」

と感じる人は、とりあえず、いつもより量を多めに入れてみてください

 

 

「鰹節が魚臭くて苦手」

という人は、昆布と干し椎茸だけでもいいし、

 

 

「鶏がらスープをとりたいけど、鶏がらが手に入らない」

という人は、手羽先でいい

 

 

豚のスペアリブでも、牛こまでも、とにかく何でもいいから鍋にぶち込んで水を入れてコトコトやってください

 

 

冷蔵庫に余っている野菜があればそれも入れてコトコトやってください

 

 

それなりに美味しいお出汁ができるはずです

 

 

そのお出汁を使う

 

利用法がわからなかったら、塩を入れて飲んでください

 

 

ココロが緩んでいくのがわかると思います

 

 

ちゃんと呼吸ができているかもわからないくらい毎日毎日がんばって、頭もフル回転させているとカラダはガチガチなはず

 

 

カラダがガチガチだと、栄養もうまく入っていきませんから。

 

 

 

 

そういう理由もあって、静岡でのごはん会はお出汁メインの内容にしました。

 

赤ちゃんにも栄養がどんどん取られていくからね!

 

 

 

 

よく、野菜嫌いのお子さんを心配するお母さんがいますが、スープにいろんな野菜を入れて飲ませれば、それだけで野菜の栄養は入っていってますから、そんなに悩むことでもないし、野菜をバクバク食べる子を羨んだりする必要もない

 

「食べなさい!!」って怖い顔をしてたら、それこそ子どものお腹は固くなりますよ

 

 

 

子どものカラダや旦那さんのカラダを心配する前に、まずはお母さんのカラダを整えること

 

 

お母さんがゆとりを持つためにも、

お母さん自身がお出汁を飲んでくださいね!

 

 

「お菓子がご飯」という人に私ができることは?

突然ですが、

3年前の昨日、FBにあげた記事をシェアします

 

 

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【手づくりすること】

 

お米や野菜・お漬物・お味噌と、何かと手づくりする家で育った私。

 

顆粒だしの存在を知ったのは20才前後。

 

母や祖母は、煮干しや昆布や鰹節でいつもお出汁をひいていたし、高校や専門学校でも同様のお出汁のひきかたを習ったので、顆粒だしを知ったところで長年カラダに染み付いている方法でしかご飯を作ってきませんでした。

 

 

今でこそ、栄養の勉強をしたり、食の安全について調べたりしてそれなりの知識はついてきましたが、小さい頃や学生時代、厳密に言うと結婚するまでは

「慣れた方法でやってる」

「それしか知らないから」

というだけの理由でやってきたようなものです。

 

結婚し、家族ができてから本格的に意識し始めましたが、すればするほど「手づくりの良さ」に気づかされます。

 

 

小さい頃は、

「外食したいなぁ…」

「よその子みたいにパフェとかオレンジジュースとかお店で食べたいなぁ…」

としょっちゅう思っていましたが、今更ながら

「家で作ったもんが1番美味しい!1番安心!」

という、耳タコ状態だった父の言葉に強く頷けます。

 

 

食事は命を作るもの。

 

 

特に、将来子どもを育みそだてるであろう娘を持つ母としては、日々の栄養の積み重ねを意識せずにはいられません。
(とはいえ、がんじがらめではなく、「AよりB」「それより先にコレ食べたら?」という、ゆる〜い感じですが)

 

 

先日、母乳と昆布の旨味成分の投稿をしましたが、離乳食を始めた1才の時から昆布と鰹節でひいたお出汁に馴染んできた娘は、大のお出汁好き❤︎

 

1日3食お味噌汁を出しても、小さいお手手で器を持って、チューチュー器用に飲み干します。

 

まだ授乳中なので、周りの、早くも卒乳(断乳)したお子さんよりも汁物の飲み方はまだまだヘタクソですが、それでも、シジミやアサリのお味噌汁や鰯のつみれ汁の時などは、お鍋を指差しておかわりを要求してきます。

 

手づくりご飯を喜んでいた父と、実際にご飯もおやつも手づくりしてくれた母の精神を、少しは私も受け継いでいけてるのかなぁ…と、最近思います。

 

 

今は、踏み台に乗って私と一緒に台所に立ちたがる娘。

 

約30年ほど前、母と私たち姉弟3人とで餃子を包んだり、コロッケを丸めた光景を思い浮かべながら、そのうち娘とも同じ光景をつくることができるかな?と密かに楽しみにしている母です(*^^*)

 


昨日、某ファストフード店の食肉問題がニュースになっていましたが、こういうことがある度に、父のあの言葉が響いてきます。

 

…ということで、今夜はチキンナゲット作ろうかな☆


画像は、私のお味噌汁を横取りする娘の画f^_^;)

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この記事から3年経って思うのは、いつでも『絶対手づくりご飯!!』と思う必要はないけれど、でもやっぱり手づくりご飯はいつでも美味しいし、嬉しい

 

だから、世の中の多くの人にも手づくりご飯を見直して欲しい

 

と思うけれど、それが叶わない人もいる

 

 

 

家族につくってあげたいけど、カラダが思うように動かずつくれない人

 

時間がなくてつくれない人

 

「ご飯をつくる」という意識が薄い人

 

そういう人がつくれるようになるためにどれだけのことができるか?

 

それがこの1〜2年間 抱いている私の課題です

 

 

 

 

ご飯をつくりたくてもカラダの不調や時間がないという理由でつくれない人にはまだいいのですが、

 

「ご飯をつくる」という概念がない人にどうアプローチするか?

 

そこが意外に難しい。

 

 

 

コロッケも焼き鳥も餃子も、買わないと食べられないと思っていた40代の人を知っています

 

家族分の茶碗やお箸がない家庭もあります

 

お菓子であっても満腹になりさえすればそれが食事だと思っている人もいます

 

 

 

根深いことです

 

 

 

その人のお母さんやおばあちゃんの食生活にまで問題が及ぶからです

 

 

そして、それは栄養状態にも課題がある場合が多く、親との関係性にシコリがある場合もあるので、私が介入できることは限られていたり…

 

 

でも、そういうことを踏まえて

「食をもって私にできる何か」

を探していきたい

 

 

 

そのために求められることはたくさんあるでしょう

 

もっともっと私自身が変化していかなければ成し得ないことだと思っています

 

 

 

手づくりご飯の大切さを伝える活動はまだまだ始まったばかりです