長岡花火と祇園祭に見た「お天道様」の存在

先日、貴重なご縁をいただいて、新潟の長岡花火を観覧する機会に恵まれました。

 

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長岡花火は、噂どおりの素晴らしいクオリティーで、観ている私たちを一瞬たりとも飽きさせず、すっかり魅了されてしまいました。

 

 

特に、多くの人から「泣くよ」と言われていたフェニックスという、平原綾香さんの曲に合わせて広範囲で繰り広げられる花火は言葉を失い、代わりに涙が溢れました。

 

 

 

長岡花火というのは、大東亜戦争で焼け野原になった長岡市の復興と、戦争で亡くなった方々の慰霊を込めて復活したお祭りらしく、今年で70年になるということ。

 

それゆえ、白菊と名付けられた尺玉3発が初めに打ち上げられます。

 

 

 

 

戦後70年以上が経ち、戦争体験者が少なくなってきた現代において、このようなお祭りによって「戦争」というものが後世にまで伝わり続けていることは、とても貴重なことだと思います。

 

 

到底 話し合いなどでは理解してもらえないであろう隣国が核だのミサイルだのとざわついているにも関わらず、「戦争反対!」といつまでも訴え続けるのはまさに平和ボケであり、これまでの歪んだ学校教育が生んだ結果とも思ったりしますが、

 

とはいえ、今ある平和や幸せを心から有り難く感謝する機会が身近にあることの素晴らしさを感じることができました。

 

 

 

 

会場に着いた頃は心地よく吹いていた風も、花火がスタートした途端に止み、打ち上げられる花火の周りには少し煙が溜まってしまったのですが、周りに座ってらっしゃった、おそらく地元の方だと思われる数人の方が、

「煙が溜まってしまってるね… かわいそうに…」

「悔しいだろうねぇ…」

と、花火師さんはじめ、お祭り関係者の心を察した言葉を口々に話されていたのを聞いて、

「関係者だけでなく、地元市民も全力でこの長岡花火の成功と伝承を心から願っているのだなぁ…」

と感じました。

 

 

これは、お互いに、相手に対する尊敬と感謝が根底になければ成り立たない

 

 

関係者も、観覧者も

「おかげさまで無事に今日を迎えることができました」

という思いが根強いはず

 

 

このネット社会において、この関係性は本当に理想だと思いました。

 

 

 

 

花火が終わり、歩行者天国になっている道路を駅まで歩いていると、3〜4階ほどのビルの屋上から子どもたちの声が聞こえてきました

 

 

よく聞くと、

「今年も見に来てくれてありがとう!また来年も来てくださーーい!」

と手を振りながら叫んでいたのです

 

 

 

なんという自尊心の高い子どもたちなんだと驚きました。

 

 

 

きっと、長岡花火の歴史を周りの大人たちから聞いていて、きっとおじいちゃんやおばあちゃんたちとのつながりも強いのだろうと想像しました

 

 

普段から、「あなたが今ここにいるということはね…」と、ご先祖さんの存在を意識できるような親からの語りかけがないとできないこととも思いました。

 

 

 

花火を観て心が震え、地元の方々の姿を見てまた心が震え…

 

私も1人の人間・1人の親としての姿を見直す貴重な機会となりました。

 

 

 

 

京都には祇園祭というお祭りがあります。

 

無病息災を願うお祭りです。

 

 

山鉾巡行が行われ、

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その後、八阪神社の神々が祀られている三基のお神輿が練り歩くのです

 

 

 

お神輿の担ぎ手は何百人ともなり、その何百人もの人たちの指揮をとるために拡声器を使って掛け声をかけながら担いだり練り歩いていきます。

 

 

 

しかし、そのうちの一基が通るある商業地区の一部のお店から

「うるさいからお神輿が通るときは拡声器を使わないで欲しい」

との声が出たそうで、今年からその一帯を通る際はマイクを使わずに通ることになったという話を聞き、ショックを受けました。

 

 

 

あの掛け声は、大人数をまとめるためでもありながら、遠くの人に

「お神輿が来ましたよ」

というお知らせも兼ねているのです

 

 

その拡声器での声をきっかけに、住人たちは外に出てお神輿を拝むことができます

 

 

実際に、お神輿が通るのを待って、手を合わせて拝んでらっしゃる年配の方の姿があります

 

 

 

小さな頃から、何かと言うと

「神様はちゃんと見守ってくださってるからね」

とか

「誰が見てなくても、神様からは見られてるよ」

と言われて育った私は、

『神様によって守られてきた私たちの命に感謝をし、今後も無事に命をつないでいけるよう祈願するのが神事』

と認識しています

 

 

 

それを、「うるさい」という感覚で捉える人がいることに大変なショックを受けたのです。

 

 

 

言葉を選ばず書くならば、

「うるさいとは何たることだ!誰のおかげで今の命があると思っているんだ!」

というのが正直なところです

 

 

ですが、幼い頃から親をはじめとする大人たちからの語りかけがなければ、神々の存在を周りにお知らせする声とて違和感になってしまうこともあるかもしれません

 

 

 

 

そして同時に、もしかしたらそれを楽しみにしている人がいるかもしれないのに、反する言い分をすんなり受け入れた神社側にもある程度の憤りを感じました

 

「そんなときこそお祭りの目的や真意を伝えるときじゃないの?!」

「これによって多くの人にお神輿の存在を知らせることができるから止めることはできないと一蹴してしまえばよかったのに…」

と。

 

 

 

しかし、真相はわかりません。

 

 

本当は神社側も何度も交渉されたかもしれないし、お祭りの歴史や存在意義を説明されたかもしれない

 

 

それに、どんなものでも時代に合わせて少しずつ変化していくのは世の常で、今後もお祭りを存続させるためには必要な苦渋の決断だったのだろうとも察します

 

 

 

 

しかしながら、我々日本人は、

「お天道様が見ているよ」

という教えを元に育ってきた感覚があります

 

だからこそ、思いやりがあり、冷静で、穏やかで、他者の気持ちを察することができる国民で、世界では珍しく「自然あっての人間」という考え方ができる民族でもあります

 

 

見えないものを大切にする気持ち

見えないものを敬う気持ち

 

それは、自然であったり、先祖であったり、神様であったり…

 

 

そこに思いを馳せることができるかどうかが、個人の豊かさにつながるような気がしてなりません

 

 

 

この夏のお祭りで、両極端のことを経験しました

 

 

今を生きる人間として、

次世代と暮らしている親として、

今後どう立ち振る舞うのか?

 

大きなきっかけとなりました。