今の仕事に生きている手応えを感じていますか?
先日、娘が観ていた子ども向けの番組の中で
「仕事ってね、ごはんを食べたり、服を着たり、家に住んだり… 毎日暮らすためにすることが仕事なんだよ」
と言っているのを耳にしました。
そのとき、何となく違和感を抱きました。
衣食住のためにするのが仕事
という概念への違和感です
収入が少なくなったとしても、食費だけはカットしてはいけないと思っている私としては、
「何のためにお金を稼ぐのか?」
と聞かれたら、
「ご飯を食べるためにお金は絶対に必要です」
と答えます。
満足に食べられなかった時期もあったから余計にそう思うのかもしれませんが。
人は、他から命をもらわなければ生きていけません。
食べものを食べないと生きていけないカラダの造りになっています。
だから、生き続けることは食べ続けることと同意です。
そう考えると、
「何のためにお金を稼いでいるのか?」
の問いに対しては
「ご飯を食べるためですよ」
と答えるのは真っ当だと思っています。
ですが、『仕事』となると話は別です。
2〜3週間ほど前、娘と一緒に歩いているとき、
「お蕎麦屋さんもあるし、自転車屋さんもあるし、薬屋さんもあるし、歯医者さんもある。なんでこんなにいろんなお店があるの?」
と聞かれ、私は
「どんなに小さなお店でも、『人の役に立ちたい』って思ってできてるのよ」
と答えました。
人の役に立つこと
これが私の中での仕事の定義です
人の役に立つから達成感も生まれるし、人の役に立とうとするから課題も挫折も生まれるのです。
そして、その仕事にどれだけ使命感を持っているかで充実度もかなり違ってくる、とも思っています。
使命感とは何か?
私なりに書くなら、
自分がやらなきゃ誰がやる!
という熱意です
国内や海外で起こっていても隣町で起こっていても、何かの問題に触れたときに、居ても経っても居られない想いを抱き、解決のために日々 自分のスキルを磨きあげる
これは使命感がなければできません。
どれだけ人の役に立っていようが、それが真の喜びにつながっていなければ、もしかしたら使命感ほどは持っていないのかもしれません。
昨日SNSで、お風呂も入らずご飯も食べていない親子のエピソードを読みました。
実話かどうか真相はわかりませんが、貧困や病気や虐待などで人が餓死したニュースも流れるくらいですから、まったく有り得ない話ではないな…と思いながら読んでいました。
こういう話に触れると
「あぁ… まだまだ私がやるべきことは山積みだな」
と、自分の力不足を感じつつも今後の大きな課題が見えてきます。
身震いがするほどです。
時には、理想と現実のギャップに泣けてきたりします。
でも、それは使命感があるからだと自信を持って言えます。
使命感があると、達成感も挫折も何倍にもなって押し寄せてきます。
それが「生きている手応え」になるのです。
達成感も挫折も、
「あぁ… 今を生きているんだ!」
という確かな手応えとなります。
私は、今の活動を『仕事』だとも『使命』だとも思っています。
いつだったか、
「今やっていることは仕事じゃなくて趣味でしょう?」
と言われたこともありますが、言葉を濁しました。
確かに、得意なこと・好きなことをやっています。
でも、だからと言ってのほほんとやっているつもりはありません。
他人からどう見られているかはわかりませんが、そんなことは私には関係のないことです。
自分が使命感を感じて、毎日「どうやったらもっと人の役に立てるだろう?」と考えながら暮らしている以上、私にとっては立派な仕事だし、使命です。
趣味程度の心持ちだったら、もう早くに投げ出していてもおかしくない状況もなんとか乗り越えてきたという自負もあります。
『仕事も職業もつくる時代だ』と思っている私と、
『仕事=雇用される』と思っている人とは、そもそも話が合わないのかもしれませんが、自分で仕事をつくることが可能になったからこそ、定年などなく、人生を通してやり切れるし、より充実した人生を送ることができるのだと思います。
と考えると、子どもに
「大きくなったら何になりたい?」
という質問ではなく、
「これからどんな人生にしたい?」
という質問の方が最適だと思うし、そう質問しても答えられる子どもにするためにも大人の在り方・親の在り方が重要だとも思います。
人は誰にでも使命はあります。
それを見つけられるかどうかは、毎日の過ごし方やアンテナの張り方も関わってくるのでしょうし、自己分析・自己対話も必要になってくるでしょう。
時代が大きく変わっていく狭間を生きている人たちには、ことさら柔軟性が求められるのだなぁ…と痛感いたします。
この過渡期をチャンスと思うか否か。
その差が次世代へも引き継がれていくような気がします。