「とんでもございません」「〜になります」…キレイな日本語を使いましょう!
今日は日本語のお勉強です笑
かなり長くなります笑
昔、仕事で人に言葉づかいを教えていた経験がある手前、普段でも「キレイな日本語を使いたい!」と思っているし、自分の子どもにも「日本語が持つ美しさを伝えていきたい!」と思っています。
美しい日本語を使っていると、それがゆくゆくは日本人としての自信や誇りにつながると思うし、先人たちへの敬愛の表れにもなると思うからです。
長年の戦後教育によって失いつつある我が国への尊敬や敬愛の精神や、核家族化によって受け継ぎにくくなっている先祖を敬い感謝する気持ちなど、生活の随所で思い起こすことができたら、日々ニュースで目にするような悲しく痛ましい事件が一つでも減るのではないかというのも、私の根底にある深い想いです。
これまでfacebookではチョコチョコ投稿していましたが、今回ブログでまとめてみることにします。
《とんでもございません》
よく聞く言葉です。
でも、これはもともと『とんでもない』という言葉が変化したもの。
『とんでもない』というのは、「もったいない」「だらしがない」「みっともない」などと同じように、本来は変化しない言葉なのです。
「ない⇔ある」と変化するものではないのですが、その「ない」の部分だけを切り取って、丁寧に表現するために「ない→ございません」と変化し、付け足すようになったのでしょう。
私もそうですが、『敬語』は一応学校でも習いますが、イマイチ理解しないまま使っていることが非常に多く、過剰に「丁寧に言わなければ!失礼がないようにしなければ!」との気持ちが先行しすぎて、無駄な言葉が入ったり二重敬語になって余計にわかりにくい場合も多々見られます。
コンビニでお弁当を買った際に言われる
「温められますか?」
がその典型ですね。
いやいや、あなたが温めてくれるんでしょ?と言いたくなる状態です^^;
もっとシンプルに
「温めましょうか?」
で十分伝わるし、まったく失礼ではありません。
話を「とんでもございません」に戻すと、、
「もったいある」「みっともある」とは言わないように、「とんでもない」はそれ以上変化しないものなので、
「とんでもないです」
で十分です。
もし、もっと丁寧に言いたいなら、
「とんでもないことです」
「とんでもないことでございます」
と表現します。
余談ですが、先日宿泊したホテル日航大阪では、外国人のホテルマンが何人かいらっしゃいました。
そのお一人から
「とんでもないことでございます」
と言われたときは、さすが名の通ったホテルだと感銘を受けました。
でも、これはホテルだからこその言葉づかいであって、普段は「とんでもないです」だけで気持ちはいいものです。
《れる・られる》
世間では「ら抜き言葉」と言われているようですね。
本来は「ら」が入るはずの言葉に入っておらず、省略されているのです。
会話の中で使われるだけでなく、文字にした場合でも見かけることが多くなりました。
「〜できた」という意味で使うとき、「られた」と言うか「れた」というか。
まぁ、それだけの違いなのですが、文字にされると余計に目立つような気がするのは私だけでしょうか?
たとえば、「見れた」「食べれた」
意味はもちろん通じます。
でも、なんとなく拍子抜けするというか、物足りなさを感じるというか、、、
「作れる」「座れる」のように、『れる』だけで表現するものがあるから区別がつきにくいのでしょうね。
わかりやすいのは、「さぁ、〇〇しよう!」という意味に変えてみると違いが出てきます。
見るー見ようー見られる
食べるー食べようー食べられる
作るー作ろうー作れる
座るー座ろうー座れる
「〜よう」と変換する言葉は「られる」
それ以外は「れる」です。
話すー話そうー話せる
行くー行こうー行ける
のように、「れる」と言わない言葉もありますが、同じく「〜よう」とは変換しません。
「見られる」「食べられる」以外には、
「着られる」
「信じられる」
「寝られる」
などはよく使う言葉ですね。
過去形で「〜られた」となる場合も同じく、「見れた」「食べれた」「起きれた」ではなく、「見られた」「食べられた」「着られた」と変化します。
ただ、こうなると
『誰かに見られた』
『ワニに食べられた』
『私の服を着られた』
と解釈できるから、「見れた」「食べれた」でもいいんだ!
という意見もあるようですが、前後の文脈でわかるので理由にもならないかと思います。
また、『られる』は尊敬語としても使われますので、その点も注意です。
『見られる→ご覧になる』
『食べられた→召し上がった』
『着られた→お召しになった』
『起きられた→お起きになった』
『寝られた→お休みになった』
と言い換えます。
日本語って、奥が深いですね。。( ̄▽ ̄;)
でも、やっぱり美しい!!
《〜になります》
これは、誰かとの会話というより、お店の店員さんやビジネスの場でよく聞く言葉ですね。
私も、かつて口酸っぱく指導していました。
「〇〇円のお返しになります」
「トイレはあちらになります」
「3ヶ月後の状態がこちらになります」
という使い方。
『なります』は、「音がなります」 「鈴がなります」の『なります』以外に、「実がなります」「どんぐりがなります」のように『できあがる・完成する』という場合でも使います。
他には、「紅葉の葉っぱが赤くなります」「ハマチがブリになります」「氷が水になります」など、状態が変化する場合に使うのが『なります』です。
だから、
「〇〇円のお返しになります」
「トイレはあちらになります」
「3ヶ月後の状態がこちらになります」
など、変化しないものに対して使う言葉ではないのです。
このことをアルバイトや教え子たちに説明するとき、私は決まって『サザエさん』を例に挙げていました。
サザエさんは、始まるとき「サザエでございまぁ〜す♪」と言って登場します。
カツオくんが出てきて「サザエになりまぁ〜す♪」と言っているわけでもなく、サザエさんが「カツオになりまぁ〜す♪」と言っているわけでもない。
サザエさんはサザエさん以外の何者にも変わることがないから「サザエでございまぁ〜す♪」と言っているのよ。
と話していました。
「〇〇円のお返しになります→〇〇円のお返しです(でございます)」
「トイレはあちらになります→トイレはあちらです(でございます)」
「3ヶ月後の状態がこちらになります→3ヶ月後の状態がこちらです(でございます)」
など、「です」もしくは「でございます」とハッキリ言い切ったほうがわかりやすいですね。
《〜のほう》
上記の『なります』と同じく、バイト敬語と言うのだそうです。
「お釣りのほうお返しします」
「靴は靴箱のほうに入れてください」
「お皿のほうおさげします」
などですね。
『〜のほう』とは、方角・方向を表したり、2つ以上のものを比較するときに使います。
「東のほう」
「西のほう」
「上のほう」
「右のほう」
または、
「AよりBのほうが」
「北より南のほうが」
「右より左のほうが」
「さっきより今のほうが」
「前より後ろのほうが」
といった具合です。
方角でも方向でもなく、何かと比較しているわけでもないのに『〜のほう』と言うと、伝えたいことがボヤけてしまいます。
「お釣りのほうお返しします→お釣りをお返しします」
「靴は靴箱のほうに入れてください→靴は靴箱に入れてください」
「お皿のほうおさげします→お皿をおさげします」
です。
『〜のほう』はなくても伝わります。
いや、ないほうが伝わります。
《すごい・すごく》
最近よく目にする、「すごい美味しい」「すごいキレイ」「すごい歩いた」という類の使い方が、個人的にどうも気になりまして…
なぜ動詞や形容詞に『すごい』をつけるのか不思議なのですが。
『すごい』というのは、それ自体が形容詞なので、
「すごい人」「かわいい人」
「すごい状態」「汚い状態」
「すごい技」「素晴らしい技」
「すごい紙」「薄い紙」
など、他の形容詞を用いても意味を成すのです。
つまり、『すごい』は、「赤い」「高い」「低い」「黒い」「白い」「美しい」「古い」「新しい」「まずい」「甘い」「寒い」などと同じ仲間。
でも、「すごい美味しい」「すごい暑い」「すごいキレイ」と使ってしまうのは、程度を表す『とても・すさまじく』という意味の『すごく』と混同しているのでしょう。
『すごい』と『すごく』の使い分けを考えるときには、「めっちゃ」を使うとわかりやすいです。
いずれも「すごく」という意味を持つので、「めっちゃ」で言い換えて変な言葉になるならそれは「すごい」と表現したほうがキレイな使い方です。
「めっちゃ人」
「めっちゃ状態」
「めっちゃ技」
「めっちゃ紙」
と言っても、なんのこっちゃわかりません。
だから、これは『すごい』。
「めっちゃかわいい」
「めっちゃキレイ」
「めっちゃ美味しい」
「めっちゃ黒い」
「めっちゃ暑い」
「めっちゃまずい」
「めっちゃ安い」
「めっちゃ古い」
「めっちゃ若い」
「めっちゃ走る」
「めっちゃ食べる」
「めっちゃ伸びる」
「めっちゃ上がる」
「めっちゃ飛ぶ」
「めっちゃ回る」
「めっちゃ流れる」
「めっちゃ泣く」
と、形容詞や動詞に『めっちゃ』をつけても文章になる場合は、『すごく』だと覚えておくとほぼ間違いはないかと思います。
『めっちゃ』をつけると意味がなる場合は『すごい』
『めっちゃ』をつけても意味が通じる場合は『すごく』
です。
とまぁ、いつも以上に長くなってしまいましたが、私も「てか」とか「みたいな」とか使いますし、言葉とはそうやって時代によって変化していくものだし、どこまで厳密に使うかは個人の心地良さに委ねられるのでしょうね。
こういうことを十分承知の上で
「でも一般的じゃないから」
「使い慣れてないから」
などの理由であえて使わない人もいるのは承知だし、方言によっても多少違ってきますからね。
…と、ここへきて身も蓋もないことを書いていますが、せめて文章として書くときくらいはちょっと気をつけておくと、文字から伝わる印象も違うかな?と思います。
無駄に崩す必要もないかな、と。
個人的には、「あたし」や「てにをは抜き」も気になるところですが、もう今日はやめておきます(^_^;)
話し言葉は可視化できないけど、書き言葉は残りますから余計に心づかいが必要な気がします。
知っているのと知らないのとではまったく違うし、使うのと使わないのとでもまた違いますから、何かのときに「あ!」と思ってもらえたら嬉しいです。
もし使えるなら、新人教育の場でも例文としてお使いくださいませ。
でも、こうして書くと、やっぱり日本語とは美しくて奥が深くて、無駄がない言葉だなぁ…と思います。
わたくしもまだまだスマートに使いこなせていませんので、これからさらに勉強です^^;
娘にはキレイな使い方をして欲しいですから。