子どものお箸はコレがいい!

今日は珍しく実用的なお話を書きます

 

 

 

子どものお箸について。

 

 

 

昨日だか一昨日だか、お友達と某SNSの中で、子どものお箸についてやりとりをしていました

 

 

 

世の中には「矯正箸」「しつけ箸」と言われるものがある

 

 

 

然るべきところに指がくるように、指を入れる輪っかのようなものがついていたりする

 

 

 

それを子どもに使わせている親御さんは世の中にはたくさんいらっしゃるだろう

 

 

私の周りでもチラホラお目にかかる

 

 

 

 

たしかに、ものすごく考えられたものだろうし、そのお箸で助かっているお母さんたちも多いでしょうが、

 

私はひねくれ者なので、あの形を見た瞬間に違和感を感じたため、娘用には買いませんでした

 

 

 

 

娘は2歳前からお箸デビューをしていますが、使っているのは何年も前からお世話になっているこちらのお店のもの

市原平兵衞商店|京都観光|きょうとあす by 婦人画報

 

 

 

 

たぶん、誰かにプレゼントするためのお箸を買いに行ったついでに娘用のお箸のことを訪ねたような記憶があります

 

 

その際、お店の方から

お箸というものにはバランスがあります。バランスの悪いお箸を使うと、いつまで経ってもうまく使えない。お箸の持ち方に影響するんですよ。まずは、このお箸から始めて、徐々に長いものに変えていけばいいです。お箸を持つのに必要な筋肉が少しずつついてきますから、それに応じてね

といったお話を伺いました

 

 

 

お箸

 

たった2本の棒で成り立つ道具

 

 

それにバランスがあるなんて!!

と驚きでした

 

 

 

と同時に、

「そうか!だからこのお店のお箸は持ちやすいのか!」

とも思いました

 

 

 

シンプルなものほど奥が深い!

と常々思ってはいますが、お箸も同様。

 

 

 

感動と感激で即購入

 

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たしか600円くらいだったかな?

 

 

 

早くからお箸を持たせようと躍起になっていたのではなく、

「置いてたらいつか使うかも…」

という軽い気持ちで食事のときに横に置いてたら、自然と手が伸びて使っていたような感じ

 

 

ご飯が美味しくなくなるのがイヤだったので、強制的にしつけたことはありません

 

 

 

 

 

実際 使っているときの画像がないかと保存している画像を遡ってみたら、ありました

 

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このとき、すでに2歳3ヶ月頃

 

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何の飾り気もないお箸ですが、おかげさまで娘は、かなり早い頃から大豆も小豆もつぶつぶトウモロコシも上手にお箸でつまめるようになっていました

 

 

 

 

幼稚園に入ると、周りの子どもたちの影響もあって、キャラクターもののお箸をおねだりしてきたこともありますが、一度きりだったので、引き続き愛用しています

 

 

 

 

2歳前から使っているので、

「4歳になった今ではもう少し長いものに買い替えたほうがいいのかもしれない」

と思い、先日お店に行ってきましたが、まだしばらくは買い替えなくてもいいとのお返事をいただきました

 

 

手の大きさや筋肉の発達状態に合わせて大きくしていかないと、変なクセがつくことになる

4〜5歳くらいまでは今のお箸を使っていいですよ。

とアドバイスいただきました

 

 

「ご心配なら一度娘さんを連れてきてもらって、どの長さのものが合うのか見てみるのもいいですけどね」

とも言ってくださったので、来年あたりに娘を連れて行こうかと思っています 

 

 

 

私は2年くらいで買い替えるものだと勝手に解釈していたので、数百円で2年以上も使えることを知って、またさらにお店への信用が増しました

 

 

もし、矯正箸を使っていたら、2年経つ前に普通のお箸に移行することになるでしょうから、もったいないことになっていました

 

 

 

 

矯正箸・しつけ箸を否定はしませんが、普通のお箸になかなか移れないお子さんを何人か知っています

 

 

普通のお箸では食事ができないんです

 

 

矯正箸でしか食事ができなくなっているんですよね

 

 

 

便利は不便

という言葉を表している事象かもしれません

 

 

物ごとの良し悪しはすべて表裏一体

 

良いところもあれば、そうでないところもあるのが世の常

 

 

便利なものは、ゆくゆく不便な道へと進んでしまうのではないかと思っています

 

 

 

お箸に限ったことではありませんが、便利だからと、その便利さに頼りすぎてしまうと、生き抜くための本質や機能がどんどん衰えていってしまうということも往々にしてあります

 

 

 

お箸の持ち方を教えることも、親子のコミュニケーションを図るためには必要なことだと思います

 

 

そこを簡単に飛び越えた先には、何らかの支障をきたしてしまう恐れがある

 

 

 

手取り足取り伝えることの良さも必ずあります

 

 

 

それを面倒だと思うなら、私たちが今ここにいることの意味もなくなってしまうような気がするのです

 

 

 

たかが箸

されど箸

 

 

毎日お世話になるもの

毎日 他の命を自分の命としてくれる大切な道具

だからこそ、良質なものを使いたいものです。

 

 

 

 

 

 

ちなみに、私は、誰かのお誕生日やらお祝いごとにお箸を贈ることが多いのですが、

 

それは、

毎日誰しも必ず使うもので

軽くて

コンパクトで

渡してもさほど荷物にならない

ものだからなのですが、

 

 

数年前、市原さんのお店の方が

 

「お箸をプレゼントされることは良いことなんですよ。『箸渡し』と言って、その方とのご縁を深める意味があります」

 

と教えてくださいました。

 

 

そのお話を伺ってから、さらにお箸を贈ることが増えました。

 

 

 

お箸のプレゼント

結構喜ばれますよ♪

 

 

 

そして、もし京都に来られる際は市原平兵衛商店さんへ足を運んでみてはいかがでしょうか。

 

 

何のために「食べて」いますか?

子どもが生まれた

 

旦那さんの給料がカットされた

 

子どもを私立の小中学校に入れるから

 

親の介護が必要になった

 

 

様々な理由で家計が厳しくなる場面が出てくる

 

家族と暮らしていなくても、一人暮らしであっても同じような状況下に置かれるときがある

 

 

 

そんなとき、一番に削られる部分が食費だったりする

 

 

 

ハッキリ言う

 

それはとても悲しいことだ

 

 

 

 

先日、あるSNSでも

ご主人の部署が変わって給料が減ったから、お肉を買う量を減らそう

と宣言していた人がいた

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どうして食費が真っ先に削除対象になるのだろう?

 

 

 

 

 

どこにでも、有り余るほどの食べものがある今の日本

 

 

 

スーパーでも

コンビニでも

ドラッグストアでも

ネットでも

 

ひょいと手を伸ばすと食べものにありつける

 

 

 

いつでもどこでも満腹にすることができる

 

 

 

 

でも、満腹になることだけが「食べる」ことの意義なのだろうか?

 

 

満腹になりさえすれば、私たちは健全に生きていけるのだろうか?

 

 

 

 

 

外食をすると、いかに炭水化物が多いかを思い知らされる

 

 

特にランチ

1,000円以下でお肉や魚をしっかり食べさせてくれるお店はあまりない

 

 

 

我が家の近所のイタリアンでは、2,500円のコースでも、メインのお肉は80g前後

 

 

でも、パスタは出るし、パンも出る

 

 

 

ご飯大盛り無料のお店もあるし、

パン食べ放題のお店もある

 

一杯のラーメンやうどんや蕎麦でお肉も野菜もしっかり食べようなんぞ、お門違いな感じ

 

一杯1,000円近くするのに、入っているものの半分以上が粉ものだ

 

 

 

 

私は、炭水化物がダメだと言ってるわけじゃない

 

半分以上粉もののラーメンやうどんや蕎麦をけしからん!と言ってるわけじゃない

 

 

断糖肉食やスーパー糖質制限など、私は決してオススメしない

 

女性や子どもはもちろん、男性であっても消化能力が追いついていない人はやめたほうがいいと思っているし、

 

私もラーメン屋さん、うどん屋さん、お蕎麦屋さんに入ることもある

 

美味しくいただく。

 

 

 

 

だから、それらが悪いとかそういうことじゃなくて、、、

 

 

なぜ、現代の日本にある飲食店のほとんどが炭水化物多めになっているのか?

というと、

 

 

それは、安いから。

 

 

原価が安いからたくさん使える

 

それだけの理由なのです

 

 

 

 

お店にとって一番大切なのは、ずっと続くこと

 

ずっと経営し続けられることです

 

 

ずっと利益を出して、ずっとお客さんに来てもらうようにすることが一番の目的

 

 

 

だから、モノの値段を決めるときは、家賃や人件費という、お店を経営していくために不可欠なものが最優先となる

 

 

その不可欠なものありきで計算されていく

 

 

材料費…  原価の優先順位は残念ながら低い

 

 

 

もちろん、世にあるお店の全部がそうとは言わない

 

たしかな素材を使って私たちを満たしてくれるお店も存在する

 

でも、そんなお店は毎日通えない

 

気軽に通える人はごく少数だったりする

 

 

 

 

多くの人が毎日でも気軽に行けるお店のほとんどは、原価が安い

 

 

原価を安く抑えるためには、どうしても安く手に入るお米や小麦に頼ることになる

 

 

それは、そのお店が生き抜くための方法なので仕方がない

 

 

誰しも、そういうお店の経営者になれば同じような考えに至るだろう

 

 

 

 

でも、家庭は違う

 

 

 

家庭の最大の目的は、

家族がいつまでも健康でいられること

家族がいつも笑顔でいること

家族がいつも元気であること

ではないだろうか?

 

 

 

家族がいつでもやりたいことをやれるように

家族がいきいきと暮らせるように

家族がいさかいなく前向きに生きていけるように

 

そうすることが家庭でしかできないことだと思う

 

 

 

そのためには何が必要か?

 

 

 

私は、

たしかなものを食べること

だと思っている

 

 

 

スーパーにある素材でいい

スーパーにある調味料でいい

 

なるべく手作りのものを食卓に並べて欲しいと願う

 

 

 

 

「食べる」ということは、明日以降の自分をつくること

 

 

それは決して満腹にすることではない

 

満腹になればいいということでもない

 

 

 

カップ麺やコンビニ弁当やスーパーのお惣菜では絶対に満たされないものが手作りご飯には入っている

 

 

 

 

今は、「ご飯を作っているお母さんの姿を見たことがない」という人も、実は少なくない

 

 

「汚れるのがキライだから」と、台所を使わない人もいる

 

 

餃子も焼きそばもコロッケも、家で作れるなんて思っていない人もいる

 

 

 

 

 

英語がしゃべれるようになって欲しいからと、1〜2歳から英語塾に通わせたり、インターナショナルスクールに通わせることもいいだろう

 

 

バレエを習わせる

ピアノを習わせる

塾に通わせる

私立の学校に入れる

 

子どもが望んだことなら叶えてあげたい親の気持ちもわかる

 

 

でも、そのために食費が削られているとしたら、それは実に悲しい

 

 

 

 

「食べる」ということは、明日以降の自分をつくることです

 

 

 

 

カラダの中に栄養が満ち足りていないと、英語やバレエやピアノや数学なども覚えられないことを知って欲しい

 

 

何かを学ぶために必要な集中力も欠けてしまうことをもっと知って欲しい

 

 

すべてにおいて、ベストパフォーマンスが発揮できないことをもっと知って欲しい

 

 

 

 

食べものがなくて、空腹を満たすことが難しい時代はもう何十年も前に終わりました

 

 

誰もがいつでも満腹にできる時代

 

 

だからこそ、もう一度、

食事をする

食べものを食べる

ということを振り返って欲しい

 

 

私たちは食べなければ生きていけないことを十分に考えて欲しい

 

 

 

「食べる」ということの捉え方

 

「生きる」ということの捉え方

 

 

 

 

あなたの家庭の中での「食」の位置付けを、今一度 見直してみてください

 

「いらない子だ」と思っていた私が親になって思うこと

今日は、私の昔の話を。

 

 

私は、九州の田舎の次女として生まれた

 

私の家は「本家」

 

 

「本家」や「分家」なんて、今ではあんまり聞くことがなくなった言葉だけれど、私が幼い頃は、なにかというと

 

「本家の人間だから、世間様に恥じぬよう」

「本家だから、悪いことはしないように」

「本家だから、後ろ指を指されるようなことはしてはいけない」

本家だから

本家だから

本家だから…

 

もう、とにかくいろんな場面で言われてきた

 

 

躾も厳しく、親や大人の言うことがすべて

 

それに口ごたえしようものなら、手は出てこないまでも、言葉と表情で押さえつけられる

 

そんな家で育った

 

 

 

上には姉

下には弟

 

九州という土地柄か、姉より私より、男である弟が一番可愛がられていた

これは、弟が40代に突入した今でも変わらない

 

 

弟が、姉や私を「あんた」呼ばわりするのは許されて、

姉や私が、弟を「あんた」呼ばわりした途端、親や祖母から「何様のつもりだ!」くらいの勢いで怒られる

 

 

いつだったか、姉と私は祖母に呼ばれ、何の用かと思っていたら

「あんたたち2人がこの世に生まれてこれたのは、弟がいるからだよ。感謝しなさい」

と言われたこともあった

 

順番としては弟は一番最後なんだし、

「私たちが生まれてきたから弟が生まれてこれた」

と考えた方が自然だし、当時の私も少し「なんでやねん!!」とは思っていたけど、

『大事な大事な本家の跡取り』

ということも幼き私は理解できていたし、そこでまた反論したとしても怒られることはわかっていたので黙って頷いて済ませた

 

 

 

姉も弟も昔からマジメ

勉強もできるし、親の言うこともよく聞く

周りの大人たちからの評判は良くて、学校の先生からの評価も高かった

 

 

反対に、私は勉強が大キライ

遊ぶの大好き

いたずら大好き

親からもよく怒られていたし、

「校則なんて破るためにある」

とか思っていたときもある

 

 

「お姉ちゃんたちみたいに勉強しなさい!!」

と言われることは日常茶飯事

 

「お姉ちゃんたちみたいに机を片付けなさい!!」

と言われることも日常茶飯事

 

いつもいつも

「お姉ちゃんたちみたいに」

「お姉ちゃんたちみたいに」

 

時には

「なんであんただけいつもそうなの?!」

と言われたりもした

 

 

 

毎日毎日学校から帰ってきたら必ず机に向かって宿題をする姉や弟が不思議でたまらなかった

 

遊ぶことより宿題を先にすることが不思議でたまらなかった

 

宿題をしている2人をどんなに遊びに誘っても、いつも断られ、私は1人で遊んでいた

 

 

小学3年生くらいのある日、宿題をしている弟にいつものように

「一緒に遊ぼう!」

と声をかけたとき、弟は

「ダメ!!」

と強めに言ってきたことがあった

 

 

いつもは「イヤ」と言って断るのに、その日は「ダメ」と言って断ってきたのが不思議で、

「なんでダメなん?」

と聞いたところ、

「宿題しなかったら、なおみ姉ちゃんみたいにお母さんたちから怒られるから」

と弟が答えた

 

その時に

「あぁ、そうか!この人たちは、楽しいからとか面白いからとかの理由で勉強してるんじゃないんだ!!なぁ〜んだ♪」

と、気持ちが急に楽になった感覚をいまでも覚えている

 

「親とか誰かの目を気にしてやるような勉強なら私はしなくていいわ!」と。

 

 

 

それから数日後、またもや

「また遊んでる!!あんたもお姉ちゃんたちみたいに勉強しなさい!!!」

と母親に怒られたとき、私はものすごく冷静に

 

「お母さん。ウチは子どもが3人いる。そのうちの2人は頭がいい。勉強もできるし、マジメ。3人のうち、2人も出来が良い子がいるんやから、そんなに心配しなくてもウチの家は大丈夫やから!」

と、自信たっぷりに言ったことがある

 

 

「そんな訳のわからんことばっかり言ってないで勉強しなさい!!!」

と、さらに怒られたのは言うまでもないが(^_^;)

 

 

お出かけするのに、姉や弟は連れて行ってもらえるのに私だけ留守番とかもあったし、親戚から理不尽な態度や言葉をかけられたこともある

 

 

だから、

「私はこの家ではいらない子かもしれない」

「私は姉や弟の引き立て役かもしれない」
と思ったことは何度もある

 

 

でも、そんなことを思っていても、この家で暮らしていかなきゃいけないのは現実としてある

 

こんなに四角四面のマジメな家での私のポジションは、家族を笑わせることだ
とずっと思ってきたし、実際そうしてた

 

 

姉も弟もできない・やらないことで、親に私という人間を注目させたかった

 

 

わざとおどけて笑わせたり、少々のウソをついてでもいいから、私が言ったりやったりすることで家族が笑ってるならそれでいいと思っていた

 

 

だから、姉も弟も、私のことを

「いつも親に怒られてる愉快な人」

と見ている感じがあった

 

「なおみねえちゃんは面白いけど頭悪い」

と弟に言われたこともある

 

 

 

でも、不思議なことに、自分で「私なんてどうせ…」とは思ったことがなかったし、

そりゃ親としては、いつも笑わせてくれる子より怒る必要のない子の方がやりやすいだろうし、成績だって良い方が安心だろうことも理解していた

 

 

今思うと、

「親から怒られるようなことを散々して、親の目を自分に向けようとしていたけど、いつも険しい顔で見られるのがイヤで笑わせる方に走った」

ということがわかる

 

 

 

「この家では求められてないだけで、外に出たら意外とそうじゃないかもしれない」とも薄っすら思っていた

 

「人間って、学校の成績とか、親の言うことをよく聞くとか、大人からの評判だけで良し悪しが決まるもんじゃない。他に何か基準があるはず…」

と。

 

当時の私の頭では、その「何か」がわからなかったけど、

「何かあるはず…」

と信じてやまなかった

 

 

 

そして、小学4年生のとき、父の仕事の都合で転校することになった

 

 

 

母はどうやら、自分が慣れない土地で近所付き合いがうまくできるかどうかを心配することより、子どもたちが新しい学校に慣れられるかの方が心配だったようで、

 

「自分の名前は大きな声でハッキリ言うのよ」

「挨拶もきちんとしてね」

と、朝の登校前にしつこく言われた記憶がかすかにある

 

 

 

初めて経験した転校生

 

ドキドキしながら席に座ったけど、もうすぐに1人の女の子が声をかけてきてくれた

 

そして、声をかけてくれる子がどんどんどんどん増えて、私の席の周りは人だかりになっていた

 

 

「へぇー!転校生ってこんなに重宝されるのか…」

と思っていたら、最初に声をかけてくれた女の子が

「家に帰ってお昼ご飯を食べたら一緒に遊ぼう!家に迎えに行くね!」

と言うので、遊ぶ約束をして家に帰った

 

 

 

家に帰ると、心配そうな母が3人の子どもに真っ先に聞いてきたこと

 

「新しい学校はどんな感じ?仲良くなれそうな友達はいる?」

 

 

それに対して、姉も弟も

「う〜〜〜〜ん… どうかな…」

「まだ今日が1日目だからわからん」

みたいな反応をしていた

 

 

「なおみちゃんは?」

と聞く母に

「私、お昼ご飯を食べたら友達が迎えに来るし、遊びに行って来る」

と答えた

 

 

答えた瞬間、家中の空気が止まった

 

 

「え?!今、何て言った?!」

みたいな顔をした家族がいた

 

 

今まで、何をやらせてもダメダメで、3人の子どもの中で秀でるものなど何もないと大人からも姉や弟からも思われていた私だけに友達ができているという状況を、誰1人 今ひとつ把握できていない様子だった

 

 

 

私は、「遊びに行ってくる」と答えながら、初めて姉と弟に「勝った!」と思った

 

つい何年か前までは、当時の私の「勝った!」の意味がわからなかったのだけど、今はわかる

 

 

親に「すごいやん!!」って思われたかった

のだ

 

親に認められたかった

のだ

 

親に「私だってやればできるんだ!」ということを知って欲しかった

のだ

 

 

 

私はこの時、

「人生で大切な、学校の成績や大人からの評判ではない何か」

がほんのりわかったような気がした

 

「ほら!こういうことよ!コレコレ!!」

という手ごたえが確かにあったから。

 

 

私の席に集まってきた友達とのやりとりで私がどう接し、何を話していたのかなんて欠けらも覚えていない

 

面倒見のいい女の子が居てくれたおかげで、私は、目には見えない、でも、確かな何かを感じとることができた

 

 

 

今思えば、

 

素直さだったり

人の役に立つことだったり

人を受け入れることだったり

笑顔は大切とか

人をバカにしないとか…

 

きっとそういうことだったのかもしれないと思う

 

 

 

自分も人の親になった今、幼き頃の私を振り返ると、かなり生意気でオマセな感じが否めない

 

 

でも、子どもは、大人が思っている以上に感じ、考え、物事を決めているんだということがわかる

 

 

だからと言って、4歳になる娘の顔色を伺いながら暮らしているわけではない

 

 

私は彼女の親だし

彼女は私の子どもだというのは紛れもない事実

 

 

でも、他人であることも事実

 

 

 

4歳であろうと、彼女が下した決断をねじ伏せる権利は私にはない

 

最低限のアドバイスや提案はするけれど、それでも揺るがない場合は、彼女の判断を優先する

 

 

 

 

子はいつでも親をみて様々な情報を得ている

 

共感もし、反面教師にもしている

 

 

時々「こんな母親でごめんね…」と、真剣に思っているママがいると聞くけれど、

 

『子どもは親を選んで生まれてくる』という言葉を信じるならば、

 

あなたがそんなお母さんであることなんて子どもは百も承知だということだ

 

 

 

どんな親であれ、

どんな家族であれ、

どんな親戚がいようと、

 

子どもは子どもなりに考え、感じて自分の立ち位置を決めていく

 

 

 

自分もそうだったように、娘もこれからどんどん変化していくだろう

 

 

そういう意味でも、子育てはやめられない

 

講座を通して見えてきた新たな使命

私はいくつかの食の講座をやっている

 

お出汁の会

ベーコンの会

万能調味料講座

簡単ご飯レシピグループ

 

FBでのオンライン講座を含めると、今は4つ

 

 

 

先日、ふと自分の講座を俯瞰して見てみた

 

 

「このいくつかの講座を通して私が成し遂げたいことはなんだろう?」

と。

 

 

 

☆ご飯づくりの壁をなくしたい

☆お母さんたちの自己肯定感を高めたい

☆自分の命やカラダに誇りを持つ人を増やしたい

☆他者の命やカラダを大切に思う人を増やしたい

 

 

 

まぁいろいろ出てきた

 

…というか、これらは割と最初から思っていたことだから、

改めて自分の使命を見つめ直した

といった感じだった

 

 

 

でも、今回1つだけ新たに加わったことがあった

 

 

それは、

 

 

味覚の正常化

 

 

というもの。

 

 

 

講座に参加してくださった方々の味覚が少しでも真っ当なものになるような働きかけ

 

 

この新たな使命は、私のどの講座でも共通する大きな大きな目的であることに今更ながら気づいた

 

 

 

 

 

先日、友人とご飯を食べながら思わず力説してしまったことがある

 

 

素材のほとんどは、塩で十分美味しくなる

 

なのに、どうしてケチャップがいる?

マヨネーズがいる?

ソースがいる?

 

野菜炒めだって「いつも塩胡椒ばっかりだから飽きる」って言う人もいるけど、素材の味を本当に感じているなら「飽きる」なんて言葉は出ないはず

 

そうやって、たくさんの人が結局 濃い味 濃い味へと向かってしまう

 

素材の味を無視する人たちが増えてしまうのが悲しい

 

もっと素材の持ち味を感じられる人を増やしたい

 

 

と、ちょっと力んでしまったけれど、話の流れで不意に出た言葉にしては、普段のモヤモヤを言い表してると思うし、これを聞いてハッとする人も多いと思う

 

 

 

 

 

最近SNSでよく見かけるこの記事

料理なんてレシピさえあれば作れるんじゃないの?と考えたマジの料理童貞が突然ハンバーグを作った - ネタりか

の中にも、ハンバーグの材料として書かれているものは15種類

 

 

肉だねだけで10種類

ソースにいたっては5種類も…

 

 

「これだけのものを揃えてつくろうとすると、そりゃ大変ですよ…」

と思う

 

 

 

 

料理本に出てくる煮物や照り焼きの調味料でも、

醤油

みりん

砂糖

 

とか、中にはハチミツを入れるものもある

 

 

 

みりんも酒も入っているのに、砂糖やハチミツ…

 

 

それ、いる?

 

 

 

 

数日前、焼きとうもろこしのレシピを見る機会があったのだけど、

醤油

みりん

砂糖

 

 

またしても、ハチミツ入りとか(^_^;)

 

中には、焼肉のたれや顆粒だしなど。。。

 

 

 

 

とうもろこしの甘みはどこへやら…

 

 

 

 

以下の写真は、ある日の夕飯

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トマトもスプラウトも玉ねぎも味付けはしていません

 

お肉には塩だけ

胡椒もしていません

レモンを絞って食べました

 

 

 

 

そして、次はある日の娘4歳のお弁当

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豆ご飯は塩だけ

煮豚は醤油だけ

とうもろこしとそら豆は味付けなしです

 

 

もう、十分すぎるほど美味しくいただきました

 

娘のお弁当も空っぽでした 

 

 

 

 

美味しい料理とは、

 

調味料でしっかりと味付けをされたものではありません

 

素材の持ち味を壊さず、生かしているものです

 

 

 

調味料の味は飽きる

 

素材の味は飽きない

 

 

 

 

素材にもよるけれど、決して、何もしないことが美味しいこととは思いません


1つの素材を美味しく味わうために、
何を加えないか?
何を加えるか?
加えるならどれくらいがボーダーラインか?
そういうことを考えられる人を増やしていきたい

 

 

 

 

「味覚の正常化」という、新たな目的が見えてきた今、「味」というものを考えられる人を増やすために、私自身も研ぎ澄ませる必要がある

 

 

さらに自分への挑戦が始まります

その謙虚さ… 過ぎていませんか?

日本人は謝るのが得意だ

 

 

本当は謙虚ということになるのだけど、

 

謙虚さは、使い方を間違えるとどんどん自分で自分の価値を無くすことにもなる

 

 

 

ときには、

 

「申し訳ない」

 

という気持ちより

 

「有り難い」

 

という気持ちでいた方が、結局 自分も相手も心地よかったりする

 

 

 

たとえば、

 

歩いているときに自分が落としたものを誰かに拾ってもらったとき

 

大きい荷物をたくさん持っている状態で階段を上ろうとしているときに、誰かに荷物を持ってもらったとき

 

行きつけのお店で、「いつも来てもらってるから」と何かをサービスしてもらったとき

 

いつもは自分がやっている仕事を、大変そうだからと誰かに手伝ってもらったとき

 

 

など、一瞬「あぁ…申し訳ないな…」という気持ちが湧くときもあるだろう

 

 

けど、それよりも

「有り難い」

と思う気持ちが増すと、

「ありがとう」

がどんどん循環する

 

 

 

 

私は立場上、子持ちのお母さんと交流することが多い

 

 

SNSで流れてくる情報も、必然的に子持ちのお母さんからのものが多い

 

 

 

そこで目につくのが、

 

自分が体調を壊したことで、旦那さんや子どもが代わりに家事をしてくれた

申し訳ない…  ごめんね…

 

という内容

 

 

わりと多い

 

 

 

そうなる気持ちはわかる

 

 

 

でも、私は、私が体調を壊して夫がせっせと家事をやったりすることに「申し訳ない」という気持ちは起きない

 

夫本人や家族を、明日も生きていかせるために必要なことをやることは、人として普通のことだと思うから。

 

「あなたがやらなかったら、自分も家族も生きていけないよね?じゃあ、やるのは当然の流れよね?」

と思う

 

 

「普通のこと」とは思うけど、

ひたすら嬉しいし、めちゃくちゃ有り難い

 

そして、なんだかカワイイw

 

 

 

 

世の中には、奥さんが寝込んでいても

「俺のご飯は?」

とか言う、最高にスットボケな男子がいるらしいけれど、

 

それはその男子の母親の責任でもあり、奥さんの責任でもある

 

「生きる知恵」というものが完全に抜けている

 

 

 

でも、夫に対する働きかけをある程度やっておくと、妻が寝込んでいようといまいと目についた家事くらいはできる男子になる

 

 

だから、何も「申し訳ない」ことではない

 

 

むしろ、「ありがとう」だと思う

 

 

 

「ありがとう」を「有り難い」と感じたときに伝えることで、相手はもっと心地よくなる

 

たとえそれがごく自然にとった、家事という名の行動だったとしても、

「あ、こういうことで喜んでくれるんだ」

と相手は思ってくれる

 

 

すると、もっともっと「ありがとう」が欲しくなる

 

 

 

反対に、「申し訳ないな…」「ごめんね」ばかり言ってると、どんどんどんどんやらなくなる

 

「申し訳ない」の循環は重いから。

 

 

 

今 我が娘は、私が寝込んだとしても丸々一食分の食事をつくるなどはできないけれど、

 

仮にそうなったとしても、私は「申し訳ない」とは思わないと思う

 

 

 

「私ができないばっかりに…」

「周りにどんどん迷惑かけて…」

「私って何もしてあげられない…」

なんて少しも思わない

 

 

 

むしろ、「これを機にどんどん生きる知恵を習得していってくれ!」とさえ思う

 

夫であれ、娘であれ、私なしでは生きていけないスットボケにはなって欲しくないから。

 

 

 

だから、どんな状態・状況であろうが、女性はただただ女神のように見守ればいいだけ

 

 

そして、きちんと伝わるように

「ありがとう。助かったよ」

と言えばいいだけ

 

 

 

お母さんがやってることは、家族が明日を生き抜くために一番必要なこと

 

そこに誇りを持っていれば、

「申し訳ない」

より

「有り難い」

が先にくるはず

 

 

「ごめんね」

より

「ありがとう」

が大きくなるはず

 

 

家族が、あなたの明日を支えてくれてるのだから。

 

 

 

「申し訳ない」より「有り難い」が広がる世の中にしたいなぁ…

私が料理のレシピ本をつくるなら…

私は、2年ほど前から「食」に関する講座やイベントをしています

 

 

 

やっていくうちに、世の女性たちが料理に対してかなりの壁を感じていることを知りました

 

 

それから、なるべく簡単に、なるべく洗い物も少なくつくれるものを…  と、家族につくるご飯で実践しながら、できあがったレシピをfacebookのあるグループで時々シェアしていました

 

 

そのグループは、カラダがしんどい人向けの料理グループのようなもので、なるべく簡単に美味しく食べられるものを紹介するグループでした

 

 

 

 

だから、自分史上最高に簡単な料理たちをあげていたのですが、どれをチョイスしても

「それはハードルが高すぎる」

と、グループメンバーのお一人からコメントをもらったのです

 

 

 

かなりショックでした

 

いや、ショックというより辛かった

 

 

やってもやっても

「それは難しい。もっと簡単じゃないと」

と言われてしまうから。

 

 

 

「これ以上、どう簡単にすればいいの?!もう…私にはわからない」

と、今思えば半分…  いや、ほとんどスネていたような状態だったし、わからなくて悔しくて泣いた日もありました

 

 

同時に、

「これくらいみんなつくれるでしょう?!」

と、少しやり場のない怒りも覚えていたほど。

 

 

 

 

 

でも、ある日、その方から非常にショッキングなお話を聞いたのです

 

 

世の中には、

水の音がイライラするとか
手が濡れることがたまらなく許せないとか
換気扇の音が怖いとか
お肉や魚が触れないとか
水が飛び散る音がイヤとか

噛むのが辛いとか
普通のフライパンも重たいとか
包丁ですら腕がだるくなるとか
洗いやすく分解できるキッチンバサミだと混乱してしまうとか
片付けしなきゃいけないことを考えただけでも涙が出るほど辛いとか

 

 

そういう人がいることを。

 

 

 

私にとってそのお話は衝撃すぎました

 

 

まさか…

ウソでしょ?!

そんな人がいるの?!と。

 

 

私の中での「常識」や「当たり前」が打ち砕かれた瞬間でした

 

 

でも、まぎれもない事実だったのです

 

 

 

 

元気な人ならなんてことないようなことでも、

辛くて、

しんどくて、

泣けるほどイヤで、

たまらなく許せなくて、

どうしようもなくイライラしてしまう

そんな日々を過ごしている人がいる

 

 

 

誰にというわけでもなく、とにかく謝りたかった

 

 

何も知らなくてごめんなさい

 

「これくらいできるでしょ?!」

「できて当たり前!!」

って思ってごめんなさい

 

って、心の中で謝りながら涙が止まらなかった

 

 

今でも、つくりたくてもつくれない人たちの話をするだけで泣けてくる

 

だから、本当は、この記事の内容は動画を撮ってyoutubeにあげたかったのだけど、泣いて泣いて話にならないだろうからブログにしました

 

まぁ、それはいいとして。

 

 

 

 

私はその話を聴いて、散々泣いて、心で詫びて、自分を改めて…

 

そして、ふと

「これが私の使命なのか!」

と感じました

 

 

 

その瞬間、不思議なことに涙は止まっていた

 

 

 

今、このタイミングで私にこの話がきた

 

今まで知り得なかった人たちの存在を、今 私は知ってしまった

 

 

…ということは、私がやるべきことはそれなのか!

 

と思いました

 

 

 

そう思った数日後、私のオンライン講座に、

毎朝 子どもさんのお弁当のおかずにたった一品つくるのが精一杯で、つくったらすぐに寝込んで、寝ながら見送ってる

という方が参加されました

 

 

 

やっぱり、私の気持ちはそういう人たちに向けるときが来たんだ!

と、再確認しました

 

 

 

 

包丁が持てない人

刃物に怯える人

手を濡らしたくない人

生ものに触れない人

キッチンに3分以上 立っていられない人

噛めない人

 

そういう人にいかに食べてもらうか?

 

 

そういう人でも無理なくつくれるものを提案することが、今後の私の最大の課題だということに目覚めたのです

 

 

 

 

 

巷に溢れる栄養情報

食の安全性を問う情報

それらのすべては、元気な人向けのものです

 

 

 

それよりも、もっともっと手前の人がいる

 

 

 

その人たちを元気にする情報で、良質なものは残念ながら今のところ見当たらない

 

 

 

世に溢れる「手抜きレシピ」は、そもそも元気な人が楽をするためのレシピで、毎日毎日這うように過ごしている人が手にしやすいレシピではない

 

 

 

だから、やっぱり私がやるしかないのです

 

 

 

 

毎食コンビニにお弁当を買いに行けるくらいの元気がある人はいいのです

 

パンケーキのお店に1時間も並べる女子はいいのです

 

大盛りのうどんを激しく音を立てながら食べられる男子もいいのです

 

 

 

私が見ている先には、それすらできない人がいる

 

 

 

 

 

おかげさまで、周りの元気なママたちからはレシピ本の出版の要望が多いのだけど、

 

 

上記のような人たちをいかに元気にするか?

 

いかに歩けるようにするか?

 

いかにつくれるようにするか?

 

 

私がレシピ本を出すとしたら、まずそこからだと思っています

 

 

 

今の私ではまだまだ力不足

 

もっともっとレシピをそぎ落として、

もっともっと壁を崩して、

もっともっと常識を取り除いて、、、

 

私にはまだまだやることが山積みです

 

 

でも、いつか必ず形にします

 

 

 

納得できる人生をつくるには?

この一週間くらいで立て続けに同じような質問を受けた

 

 

冷やご飯の温め、どうしてますか?

 

 

 

どなたも小さなお子さんをお持ちのママ

 

 

そして、どなたも

 

「電子レンジは便利だけど、使うと栄養がいろいろどうにかなるとか聞くし、電磁波のこともあるし、あんまり使っちゃいけないって思うし、使いたくもないのだけど、なおみさんはどうしてるのかなぁ?」

 

という、素朴な疑問が根底にあったご様子

 

 

 

私の本音を言えば、

 

まぁ、お母さんにストレスがかからない方法でやればいいんじゃない?

 

ってことしかない

 

 

 

ご飯の温めにかぎらず、私のご飯づくり・食卓づくりの基本はそこにしかありません

 

 

 

 

「食」と「ストレス」って、なぜかいつも背中合わせのような気がしています

 

 

「食」って、自分を満たすもののはずなのに、、、、、

 

 

いや、自分を満たすものだとわかっているからストレスになる

これですね!

 

 

 

電子レンジを使うことにストレスを感じている人もいれば、

 

鍋を出して温めなおすことにストレスを感じている人もいる

 

 

 

電子レンジ自体がストレスな人は、電子レンジがあることがイヤなわけだから、だいたい電子レンジを使ってない

 

てか、電子レンジが家にない

 

だから、そういう人にとっては、

「鍋で蒸すっていっても、慣れれば簡単よ〜!そっちの方が美味しいし」

と、軽ぅ〜〜く言う

 

 

 

でも、ご飯を温めるだけのために鍋を出すことにストレスを感じている人もいるわけで、そんな人にとっては、上のような人の軽ぅ〜〜い言葉なんて響かない

 

 

そもそも価値観や求めていることが違うから。

 

 

 

だから個人的には、電子レンジを使わないことが偉いとも思わないし、

 

電子レンジを使っていることが愚かなこととも思わない

 

 

もし、この世に

「えーーー!!こんなにいろんなところで “電子レンジはダメ!!電磁波は危険!!” って言われてるのに、未だに電子レンジを使ってる人がいるのぉ?!信じられなーい!!無知は罪よね〜〜」

なんて言う人がいるなら、

 

その人は、単に視野と思考が狭い、どんなときも「自分が正しい」と思っている可能性があるので放っておけばいい

 

 

 

 

世の中には、

 

水の音にイライラしたり

手が濡れることがたまらなく許せなかったり

フライパン1つ出すことに対抗があったり

お肉やお魚を触れない人がいたり

換気扇の音がたまらなく怖かったり…

 

そういう人が実際にいることをきっと知らない

 

 

 

知らないものは知り得ないんだから、

「無知は罪」

なんて言いまくっている人の方がよっぽど罪深いと思う

 

 

「無知は罪」なんて言ってる暇があったら、伝えようとすれば?

伝わってないんだったら、他の伝え方はないかもっと考えれば?

「どれだけ言ってもあの人には伝わらない!!」なんて憤慨している暇があるんなら、もっと相手のことを知ろうとすれば?

 

とかとか私は思うのだけど、まぁそれは置いといて…

 

 

 

電子レンジの話。

 

 

 

 

1つのモノや事柄に、相反する思いを抱く人がいるのは世の常

 

 

電子レンジを便利だと思う人もいれば、

反対に嫌う人もいる

 

 

鍋で温めなおすことを快適だと感じる人もいれば、反対に心地悪さを感じる人もいる

 

 

 

まったく違うものを追い求めているわけだから、接点なんてない

 

 

電子レンジを使う心地よさと

鍋で温めなおす心地よさ

自分の中でどっちが大きいだろう?と考える

 

そこにしか答えはないのです

 

 

 

 

 

幼稚園のお昼ご飯も、

 

毎日の給食を有り難がってる人もいれば、

毎日お弁当であることを有り難がってる人もいる

 

 

 

子どもにテレビを見せることだって、

 

それにストレスを感じている人もいれば、

その間に家事が進んで快適☆って思っている人もいるわけで。。。

 

 

 

 

相手の事情も知らず、相手に届かないところであーだこーだと言ったり思ったりしているなんてもったいない

 

その時間を、その思いを、

別のところに使えばいいのにね

 

 

…って思うけど、電子レンジの話だった(^_^;)

 

 

 

 

結局 何が言いたいかというと、

 

「自分が納得してたらそれでいいんじゃない?」

 

ってことです

 

 

 

そりゃあね、他人がどうやってるか?気になる気持ちもわかる

 

 

 

わかるけど、別に電子レンジ使ってるからって死刑になる世の中でもないし、

 

罰金なんてものもないし、

 

税金が増えるって決まりも今のところない。

 

 

 

電子レンジはあった方が圧倒的に便利だけど、栄養の損失が…  電磁波が…

 

って思うんなら、その分 他でカバーすればいい

 

 

 

「私はこうしたい!」「これはイヤだ!」という強い思いや意思があるのにいつまでもモヤモヤがなくならない人は、

「じゃあ、どうする?」

という問いかけが不足しているような気がします

 

 

 

「じゃあ、どうする?」

って問いかけを自分にして、納得のいくまで答えを導き出している人は、他人のことなんて、世間で言われていることなんて気にならないはずなのです

 

 

 

自分のこと

家族のこと

人生のこと

 

何かモヤモヤがある人は問いかけてみてください

 

 

じゃあ、どうする?