「いらない子だ」と思っていた私が親になって思うこと

今日は、私の昔の話を。

 

 

私は、九州の田舎の次女として生まれた

 

私の家は「本家」

 

 

「本家」や「分家」なんて、今ではあんまり聞くことがなくなった言葉だけれど、私が幼い頃は、なにかというと

 

「本家の人間だから、世間様に恥じぬよう」

「本家だから、悪いことはしないように」

「本家だから、後ろ指を指されるようなことはしてはいけない」

本家だから

本家だから

本家だから…

 

もう、とにかくいろんな場面で言われてきた

 

 

躾も厳しく、親や大人の言うことがすべて

 

それに口ごたえしようものなら、手は出てこないまでも、言葉と表情で押さえつけられる

 

そんな家で育った

 

 

 

上には姉

下には弟

 

九州という土地柄か、姉より私より、男である弟が一番可愛がられていた

これは、弟が40代に突入した今でも変わらない

 

 

弟が、姉や私を「あんた」呼ばわりするのは許されて、

姉や私が、弟を「あんた」呼ばわりした途端、親や祖母から「何様のつもりだ!」くらいの勢いで怒られる

 

 

いつだったか、姉と私は祖母に呼ばれ、何の用かと思っていたら

「あんたたち2人がこの世に生まれてこれたのは、弟がいるからだよ。感謝しなさい」

と言われたこともあった

 

順番としては弟は一番最後なんだし、

「私たちが生まれてきたから弟が生まれてこれた」

と考えた方が自然だし、当時の私も少し「なんでやねん!!」とは思っていたけど、

『大事な大事な本家の跡取り』

ということも幼き私は理解できていたし、そこでまた反論したとしても怒られることはわかっていたので黙って頷いて済ませた

 

 

 

姉も弟も昔からマジメ

勉強もできるし、親の言うこともよく聞く

周りの大人たちからの評判は良くて、学校の先生からの評価も高かった

 

 

反対に、私は勉強が大キライ

遊ぶの大好き

いたずら大好き

親からもよく怒られていたし、

「校則なんて破るためにある」

とか思っていたときもある

 

 

「お姉ちゃんたちみたいに勉強しなさい!!」

と言われることは日常茶飯事

 

「お姉ちゃんたちみたいに机を片付けなさい!!」

と言われることも日常茶飯事

 

いつもいつも

「お姉ちゃんたちみたいに」

「お姉ちゃんたちみたいに」

 

時には

「なんであんただけいつもそうなの?!」

と言われたりもした

 

 

 

毎日毎日学校から帰ってきたら必ず机に向かって宿題をする姉や弟が不思議でたまらなかった

 

遊ぶことより宿題を先にすることが不思議でたまらなかった

 

宿題をしている2人をどんなに遊びに誘っても、いつも断られ、私は1人で遊んでいた

 

 

小学3年生くらいのある日、宿題をしている弟にいつものように

「一緒に遊ぼう!」

と声をかけたとき、弟は

「ダメ!!」

と強めに言ってきたことがあった

 

 

いつもは「イヤ」と言って断るのに、その日は「ダメ」と言って断ってきたのが不思議で、

「なんでダメなん?」

と聞いたところ、

「宿題しなかったら、なおみ姉ちゃんみたいにお母さんたちから怒られるから」

と弟が答えた

 

その時に

「あぁ、そうか!この人たちは、楽しいからとか面白いからとかの理由で勉強してるんじゃないんだ!!なぁ〜んだ♪」

と、気持ちが急に楽になった感覚をいまでも覚えている

 

「親とか誰かの目を気にしてやるような勉強なら私はしなくていいわ!」と。

 

 

 

それから数日後、またもや

「また遊んでる!!あんたもお姉ちゃんたちみたいに勉強しなさい!!!」

と母親に怒られたとき、私はものすごく冷静に

 

「お母さん。ウチは子どもが3人いる。そのうちの2人は頭がいい。勉強もできるし、マジメ。3人のうち、2人も出来が良い子がいるんやから、そんなに心配しなくてもウチの家は大丈夫やから!」

と、自信たっぷりに言ったことがある

 

 

「そんな訳のわからんことばっかり言ってないで勉強しなさい!!!」

と、さらに怒られたのは言うまでもないが(^_^;)

 

 

お出かけするのに、姉や弟は連れて行ってもらえるのに私だけ留守番とかもあったし、親戚から理不尽な態度や言葉をかけられたこともある

 

 

だから、

「私はこの家ではいらない子かもしれない」

「私は姉や弟の引き立て役かもしれない」
と思ったことは何度もある

 

 

でも、そんなことを思っていても、この家で暮らしていかなきゃいけないのは現実としてある

 

こんなに四角四面のマジメな家での私のポジションは、家族を笑わせることだ
とずっと思ってきたし、実際そうしてた

 

 

姉も弟もできない・やらないことで、親に私という人間を注目させたかった

 

 

わざとおどけて笑わせたり、少々のウソをついてでもいいから、私が言ったりやったりすることで家族が笑ってるならそれでいいと思っていた

 

 

だから、姉も弟も、私のことを

「いつも親に怒られてる愉快な人」

と見ている感じがあった

 

「なおみねえちゃんは面白いけど頭悪い」

と弟に言われたこともある

 

 

 

でも、不思議なことに、自分で「私なんてどうせ…」とは思ったことがなかったし、

そりゃ親としては、いつも笑わせてくれる子より怒る必要のない子の方がやりやすいだろうし、成績だって良い方が安心だろうことも理解していた

 

 

今思うと、

「親から怒られるようなことを散々して、親の目を自分に向けようとしていたけど、いつも険しい顔で見られるのがイヤで笑わせる方に走った」

ということがわかる

 

 

 

「この家では求められてないだけで、外に出たら意外とそうじゃないかもしれない」とも薄っすら思っていた

 

「人間って、学校の成績とか、親の言うことをよく聞くとか、大人からの評判だけで良し悪しが決まるもんじゃない。他に何か基準があるはず…」

と。

 

当時の私の頭では、その「何か」がわからなかったけど、

「何かあるはず…」

と信じてやまなかった

 

 

 

そして、小学4年生のとき、父の仕事の都合で転校することになった

 

 

 

母はどうやら、自分が慣れない土地で近所付き合いがうまくできるかどうかを心配することより、子どもたちが新しい学校に慣れられるかの方が心配だったようで、

 

「自分の名前は大きな声でハッキリ言うのよ」

「挨拶もきちんとしてね」

と、朝の登校前にしつこく言われた記憶がかすかにある

 

 

 

初めて経験した転校生

 

ドキドキしながら席に座ったけど、もうすぐに1人の女の子が声をかけてきてくれた

 

そして、声をかけてくれる子がどんどんどんどん増えて、私の席の周りは人だかりになっていた

 

 

「へぇー!転校生ってこんなに重宝されるのか…」

と思っていたら、最初に声をかけてくれた女の子が

「家に帰ってお昼ご飯を食べたら一緒に遊ぼう!家に迎えに行くね!」

と言うので、遊ぶ約束をして家に帰った

 

 

 

家に帰ると、心配そうな母が3人の子どもに真っ先に聞いてきたこと

 

「新しい学校はどんな感じ?仲良くなれそうな友達はいる?」

 

 

それに対して、姉も弟も

「う〜〜〜〜ん… どうかな…」

「まだ今日が1日目だからわからん」

みたいな反応をしていた

 

 

「なおみちゃんは?」

と聞く母に

「私、お昼ご飯を食べたら友達が迎えに来るし、遊びに行って来る」

と答えた

 

 

答えた瞬間、家中の空気が止まった

 

 

「え?!今、何て言った?!」

みたいな顔をした家族がいた

 

 

今まで、何をやらせてもダメダメで、3人の子どもの中で秀でるものなど何もないと大人からも姉や弟からも思われていた私だけに友達ができているという状況を、誰1人 今ひとつ把握できていない様子だった

 

 

 

私は、「遊びに行ってくる」と答えながら、初めて姉と弟に「勝った!」と思った

 

つい何年か前までは、当時の私の「勝った!」の意味がわからなかったのだけど、今はわかる

 

 

親に「すごいやん!!」って思われたかった

のだ

 

親に認められたかった

のだ

 

親に「私だってやればできるんだ!」ということを知って欲しかった

のだ

 

 

 

私はこの時、

「人生で大切な、学校の成績や大人からの評判ではない何か」

がほんのりわかったような気がした

 

「ほら!こういうことよ!コレコレ!!」

という手ごたえが確かにあったから。

 

 

私の席に集まってきた友達とのやりとりで私がどう接し、何を話していたのかなんて欠けらも覚えていない

 

面倒見のいい女の子が居てくれたおかげで、私は、目には見えない、でも、確かな何かを感じとることができた

 

 

 

今思えば、

 

素直さだったり

人の役に立つことだったり

人を受け入れることだったり

笑顔は大切とか

人をバカにしないとか…

 

きっとそういうことだったのかもしれないと思う

 

 

 

自分も人の親になった今、幼き頃の私を振り返ると、かなり生意気でオマセな感じが否めない

 

 

でも、子どもは、大人が思っている以上に感じ、考え、物事を決めているんだということがわかる

 

 

だからと言って、4歳になる娘の顔色を伺いながら暮らしているわけではない

 

 

私は彼女の親だし

彼女は私の子どもだというのは紛れもない事実

 

 

でも、他人であることも事実

 

 

 

4歳であろうと、彼女が下した決断をねじ伏せる権利は私にはない

 

最低限のアドバイスや提案はするけれど、それでも揺るがない場合は、彼女の判断を優先する

 

 

 

 

子はいつでも親をみて様々な情報を得ている

 

共感もし、反面教師にもしている

 

 

時々「こんな母親でごめんね…」と、真剣に思っているママがいると聞くけれど、

 

『子どもは親を選んで生まれてくる』という言葉を信じるならば、

 

あなたがそんなお母さんであることなんて子どもは百も承知だということだ

 

 

 

どんな親であれ、

どんな家族であれ、

どんな親戚がいようと、

 

子どもは子どもなりに考え、感じて自分の立ち位置を決めていく

 

 

 

自分もそうだったように、娘もこれからどんどん変化していくだろう

 

 

そういう意味でも、子育てはやめられない

 

講座を通して見えてきた新たな使命

私はいくつかの食の講座をやっている

 

お出汁の会

ベーコンの会

万能調味料講座

簡単ご飯レシピグループ

 

FBでのオンライン講座を含めると、今は4つ

 

 

 

先日、ふと自分の講座を俯瞰して見てみた

 

 

「このいくつかの講座を通して私が成し遂げたいことはなんだろう?」

と。

 

 

 

☆ご飯づくりの壁をなくしたい

☆お母さんたちの自己肯定感を高めたい

☆自分の命やカラダに誇りを持つ人を増やしたい

☆他者の命やカラダを大切に思う人を増やしたい

 

 

 

まぁいろいろ出てきた

 

…というか、これらは割と最初から思っていたことだから、

改めて自分の使命を見つめ直した

といった感じだった

 

 

 

でも、今回1つだけ新たに加わったことがあった

 

 

それは、

 

 

味覚の正常化

 

 

というもの。

 

 

 

講座に参加してくださった方々の味覚が少しでも真っ当なものになるような働きかけ

 

 

この新たな使命は、私のどの講座でも共通する大きな大きな目的であることに今更ながら気づいた

 

 

 

 

 

先日、友人とご飯を食べながら思わず力説してしまったことがある

 

 

素材のほとんどは、塩で十分美味しくなる

 

なのに、どうしてケチャップがいる?

マヨネーズがいる?

ソースがいる?

 

野菜炒めだって「いつも塩胡椒ばっかりだから飽きる」って言う人もいるけど、素材の味を本当に感じているなら「飽きる」なんて言葉は出ないはず

 

そうやって、たくさんの人が結局 濃い味 濃い味へと向かってしまう

 

素材の味を無視する人たちが増えてしまうのが悲しい

 

もっと素材の持ち味を感じられる人を増やしたい

 

 

と、ちょっと力んでしまったけれど、話の流れで不意に出た言葉にしては、普段のモヤモヤを言い表してると思うし、これを聞いてハッとする人も多いと思う

 

 

 

 

 

最近SNSでよく見かけるこの記事

料理なんてレシピさえあれば作れるんじゃないの?と考えたマジの料理童貞が突然ハンバーグを作った - ネタりか

の中にも、ハンバーグの材料として書かれているものは15種類

 

 

肉だねだけで10種類

ソースにいたっては5種類も…

 

 

「これだけのものを揃えてつくろうとすると、そりゃ大変ですよ…」

と思う

 

 

 

 

料理本に出てくる煮物や照り焼きの調味料でも、

醤油

みりん

砂糖

 

とか、中にはハチミツを入れるものもある

 

 

 

みりんも酒も入っているのに、砂糖やハチミツ…

 

 

それ、いる?

 

 

 

 

数日前、焼きとうもろこしのレシピを見る機会があったのだけど、

醤油

みりん

砂糖

 

 

またしても、ハチミツ入りとか(^_^;)

 

中には、焼肉のたれや顆粒だしなど。。。

 

 

 

 

とうもろこしの甘みはどこへやら…

 

 

 

 

以下の写真は、ある日の夕飯

f:id:y_naomix:20170531073803j:image

トマトもスプラウトも玉ねぎも味付けはしていません

 

お肉には塩だけ

胡椒もしていません

レモンを絞って食べました

 

 

 

 

そして、次はある日の娘4歳のお弁当

f:id:y_naomix:20170531074027j:image

豆ご飯は塩だけ

煮豚は醤油だけ

とうもろこしとそら豆は味付けなしです

 

 

もう、十分すぎるほど美味しくいただきました

 

娘のお弁当も空っぽでした 

 

 

 

 

美味しい料理とは、

 

調味料でしっかりと味付けをされたものではありません

 

素材の持ち味を壊さず、生かしているものです

 

 

 

調味料の味は飽きる

 

素材の味は飽きない

 

 

 

 

素材にもよるけれど、決して、何もしないことが美味しいこととは思いません


1つの素材を美味しく味わうために、
何を加えないか?
何を加えるか?
加えるならどれくらいがボーダーラインか?
そういうことを考えられる人を増やしていきたい

 

 

 

 

「味覚の正常化」という、新たな目的が見えてきた今、「味」というものを考えられる人を増やすために、私自身も研ぎ澄ませる必要がある

 

 

さらに自分への挑戦が始まります

その謙虚さ… 過ぎていませんか?

日本人は謝るのが得意だ

 

 

本当は謙虚ということになるのだけど、

 

謙虚さは、使い方を間違えるとどんどん自分で自分の価値を無くすことにもなる

 

 

 

ときには、

 

「申し訳ない」

 

という気持ちより

 

「有り難い」

 

という気持ちでいた方が、結局 自分も相手も心地よかったりする

 

 

 

たとえば、

 

歩いているときに自分が落としたものを誰かに拾ってもらったとき

 

大きい荷物をたくさん持っている状態で階段を上ろうとしているときに、誰かに荷物を持ってもらったとき

 

行きつけのお店で、「いつも来てもらってるから」と何かをサービスしてもらったとき

 

いつもは自分がやっている仕事を、大変そうだからと誰かに手伝ってもらったとき

 

 

など、一瞬「あぁ…申し訳ないな…」という気持ちが湧くときもあるだろう

 

 

けど、それよりも

「有り難い」

と思う気持ちが増すと、

「ありがとう」

がどんどん循環する

 

 

 

 

私は立場上、子持ちのお母さんと交流することが多い

 

 

SNSで流れてくる情報も、必然的に子持ちのお母さんからのものが多い

 

 

 

そこで目につくのが、

 

自分が体調を壊したことで、旦那さんや子どもが代わりに家事をしてくれた

申し訳ない…  ごめんね…

 

という内容

 

 

わりと多い

 

 

 

そうなる気持ちはわかる

 

 

 

でも、私は、私が体調を壊して夫がせっせと家事をやったりすることに「申し訳ない」という気持ちは起きない

 

夫本人や家族を、明日も生きていかせるために必要なことをやることは、人として普通のことだと思うから。

 

「あなたがやらなかったら、自分も家族も生きていけないよね?じゃあ、やるのは当然の流れよね?」

と思う

 

 

「普通のこと」とは思うけど、

ひたすら嬉しいし、めちゃくちゃ有り難い

 

そして、なんだかカワイイw

 

 

 

 

世の中には、奥さんが寝込んでいても

「俺のご飯は?」

とか言う、最高にスットボケな男子がいるらしいけれど、

 

それはその男子の母親の責任でもあり、奥さんの責任でもある

 

「生きる知恵」というものが完全に抜けている

 

 

 

でも、夫に対する働きかけをある程度やっておくと、妻が寝込んでいようといまいと目についた家事くらいはできる男子になる

 

 

だから、何も「申し訳ない」ことではない

 

 

むしろ、「ありがとう」だと思う

 

 

 

「ありがとう」を「有り難い」と感じたときに伝えることで、相手はもっと心地よくなる

 

たとえそれがごく自然にとった、家事という名の行動だったとしても、

「あ、こういうことで喜んでくれるんだ」

と相手は思ってくれる

 

 

すると、もっともっと「ありがとう」が欲しくなる

 

 

 

反対に、「申し訳ないな…」「ごめんね」ばかり言ってると、どんどんどんどんやらなくなる

 

「申し訳ない」の循環は重いから。

 

 

 

今 我が娘は、私が寝込んだとしても丸々一食分の食事をつくるなどはできないけれど、

 

仮にそうなったとしても、私は「申し訳ない」とは思わないと思う

 

 

 

「私ができないばっかりに…」

「周りにどんどん迷惑かけて…」

「私って何もしてあげられない…」

なんて少しも思わない

 

 

 

むしろ、「これを機にどんどん生きる知恵を習得していってくれ!」とさえ思う

 

夫であれ、娘であれ、私なしでは生きていけないスットボケにはなって欲しくないから。

 

 

 

だから、どんな状態・状況であろうが、女性はただただ女神のように見守ればいいだけ

 

 

そして、きちんと伝わるように

「ありがとう。助かったよ」

と言えばいいだけ

 

 

 

お母さんがやってることは、家族が明日を生き抜くために一番必要なこと

 

そこに誇りを持っていれば、

「申し訳ない」

より

「有り難い」

が先にくるはず

 

 

「ごめんね」

より

「ありがとう」

が大きくなるはず

 

 

家族が、あなたの明日を支えてくれてるのだから。

 

 

 

「申し訳ない」より「有り難い」が広がる世の中にしたいなぁ…

私が料理のレシピ本をつくるなら…

私は、2年ほど前から「食」に関する講座やイベントをしています

 

 

 

やっていくうちに、世の女性たちが料理に対してかなりの壁を感じていることを知りました

 

 

それから、なるべく簡単に、なるべく洗い物も少なくつくれるものを…  と、家族につくるご飯で実践しながら、できあがったレシピをfacebookのあるグループで時々シェアしていました

 

 

そのグループは、カラダがしんどい人向けの料理グループのようなもので、なるべく簡単に美味しく食べられるものを紹介するグループでした

 

 

 

 

だから、自分史上最高に簡単な料理たちをあげていたのですが、どれをチョイスしても

「それはハードルが高すぎる」

と、グループメンバーのお一人からコメントをもらったのです

 

 

 

かなりショックでした

 

いや、ショックというより辛かった

 

 

やってもやっても

「それは難しい。もっと簡単じゃないと」

と言われてしまうから。

 

 

 

「これ以上、どう簡単にすればいいの?!もう…私にはわからない」

と、今思えば半分…  いや、ほとんどスネていたような状態だったし、わからなくて悔しくて泣いた日もありました

 

 

同時に、

「これくらいみんなつくれるでしょう?!」

と、少しやり場のない怒りも覚えていたほど。

 

 

 

 

 

でも、ある日、その方から非常にショッキングなお話を聞いたのです

 

 

世の中には、

水の音がイライラするとか
手が濡れることがたまらなく許せないとか
換気扇の音が怖いとか
お肉や魚が触れないとか
水が飛び散る音がイヤとか

噛むのが辛いとか
普通のフライパンも重たいとか
包丁ですら腕がだるくなるとか
洗いやすく分解できるキッチンバサミだと混乱してしまうとか
片付けしなきゃいけないことを考えただけでも涙が出るほど辛いとか

 

 

そういう人がいることを。

 

 

 

私にとってそのお話は衝撃すぎました

 

 

まさか…

ウソでしょ?!

そんな人がいるの?!と。

 

 

私の中での「常識」や「当たり前」が打ち砕かれた瞬間でした

 

 

でも、まぎれもない事実だったのです

 

 

 

 

元気な人ならなんてことないようなことでも、

辛くて、

しんどくて、

泣けるほどイヤで、

たまらなく許せなくて、

どうしようもなくイライラしてしまう

そんな日々を過ごしている人がいる

 

 

 

誰にというわけでもなく、とにかく謝りたかった

 

 

何も知らなくてごめんなさい

 

「これくらいできるでしょ?!」

「できて当たり前!!」

って思ってごめんなさい

 

って、心の中で謝りながら涙が止まらなかった

 

 

今でも、つくりたくてもつくれない人たちの話をするだけで泣けてくる

 

だから、本当は、この記事の内容は動画を撮ってyoutubeにあげたかったのだけど、泣いて泣いて話にならないだろうからブログにしました

 

まぁ、それはいいとして。

 

 

 

 

私はその話を聴いて、散々泣いて、心で詫びて、自分を改めて…

 

そして、ふと

「これが私の使命なのか!」

と感じました

 

 

 

その瞬間、不思議なことに涙は止まっていた

 

 

 

今、このタイミングで私にこの話がきた

 

今まで知り得なかった人たちの存在を、今 私は知ってしまった

 

 

…ということは、私がやるべきことはそれなのか!

 

と思いました

 

 

 

そう思った数日後、私のオンライン講座に、

毎朝 子どもさんのお弁当のおかずにたった一品つくるのが精一杯で、つくったらすぐに寝込んで、寝ながら見送ってる

という方が参加されました

 

 

 

やっぱり、私の気持ちはそういう人たちに向けるときが来たんだ!

と、再確認しました

 

 

 

 

包丁が持てない人

刃物に怯える人

手を濡らしたくない人

生ものに触れない人

キッチンに3分以上 立っていられない人

噛めない人

 

そういう人にいかに食べてもらうか?

 

 

そういう人でも無理なくつくれるものを提案することが、今後の私の最大の課題だということに目覚めたのです

 

 

 

 

 

巷に溢れる栄養情報

食の安全性を問う情報

それらのすべては、元気な人向けのものです

 

 

 

それよりも、もっともっと手前の人がいる

 

 

 

その人たちを元気にする情報で、良質なものは残念ながら今のところ見当たらない

 

 

 

世に溢れる「手抜きレシピ」は、そもそも元気な人が楽をするためのレシピで、毎日毎日這うように過ごしている人が手にしやすいレシピではない

 

 

 

だから、やっぱり私がやるしかないのです

 

 

 

 

毎食コンビニにお弁当を買いに行けるくらいの元気がある人はいいのです

 

パンケーキのお店に1時間も並べる女子はいいのです

 

大盛りのうどんを激しく音を立てながら食べられる男子もいいのです

 

 

 

私が見ている先には、それすらできない人がいる

 

 

 

 

 

おかげさまで、周りの元気なママたちからはレシピ本の出版の要望が多いのだけど、

 

 

上記のような人たちをいかに元気にするか?

 

いかに歩けるようにするか?

 

いかにつくれるようにするか?

 

 

私がレシピ本を出すとしたら、まずそこからだと思っています

 

 

 

今の私ではまだまだ力不足

 

もっともっとレシピをそぎ落として、

もっともっと壁を崩して、

もっともっと常識を取り除いて、、、

 

私にはまだまだやることが山積みです

 

 

でも、いつか必ず形にします

 

 

 

納得できる人生をつくるには?

この一週間くらいで立て続けに同じような質問を受けた

 

 

冷やご飯の温め、どうしてますか?

 

 

 

どなたも小さなお子さんをお持ちのママ

 

 

そして、どなたも

 

「電子レンジは便利だけど、使うと栄養がいろいろどうにかなるとか聞くし、電磁波のこともあるし、あんまり使っちゃいけないって思うし、使いたくもないのだけど、なおみさんはどうしてるのかなぁ?」

 

という、素朴な疑問が根底にあったご様子

 

 

 

私の本音を言えば、

 

まぁ、お母さんにストレスがかからない方法でやればいいんじゃない?

 

ってことしかない

 

 

 

ご飯の温めにかぎらず、私のご飯づくり・食卓づくりの基本はそこにしかありません

 

 

 

 

「食」と「ストレス」って、なぜかいつも背中合わせのような気がしています

 

 

「食」って、自分を満たすもののはずなのに、、、、、

 

 

いや、自分を満たすものだとわかっているからストレスになる

これですね!

 

 

 

電子レンジを使うことにストレスを感じている人もいれば、

 

鍋を出して温めなおすことにストレスを感じている人もいる

 

 

 

電子レンジ自体がストレスな人は、電子レンジがあることがイヤなわけだから、だいたい電子レンジを使ってない

 

てか、電子レンジが家にない

 

だから、そういう人にとっては、

「鍋で蒸すっていっても、慣れれば簡単よ〜!そっちの方が美味しいし」

と、軽ぅ〜〜く言う

 

 

 

でも、ご飯を温めるだけのために鍋を出すことにストレスを感じている人もいるわけで、そんな人にとっては、上のような人の軽ぅ〜〜い言葉なんて響かない

 

 

そもそも価値観や求めていることが違うから。

 

 

 

だから個人的には、電子レンジを使わないことが偉いとも思わないし、

 

電子レンジを使っていることが愚かなこととも思わない

 

 

もし、この世に

「えーーー!!こんなにいろんなところで “電子レンジはダメ!!電磁波は危険!!” って言われてるのに、未だに電子レンジを使ってる人がいるのぉ?!信じられなーい!!無知は罪よね〜〜」

なんて言う人がいるなら、

 

その人は、単に視野と思考が狭い、どんなときも「自分が正しい」と思っている可能性があるので放っておけばいい

 

 

 

 

世の中には、

 

水の音にイライラしたり

手が濡れることがたまらなく許せなかったり

フライパン1つ出すことに対抗があったり

お肉やお魚を触れない人がいたり

換気扇の音がたまらなく怖かったり…

 

そういう人が実際にいることをきっと知らない

 

 

 

知らないものは知り得ないんだから、

「無知は罪」

なんて言いまくっている人の方がよっぽど罪深いと思う

 

 

「無知は罪」なんて言ってる暇があったら、伝えようとすれば?

伝わってないんだったら、他の伝え方はないかもっと考えれば?

「どれだけ言ってもあの人には伝わらない!!」なんて憤慨している暇があるんなら、もっと相手のことを知ろうとすれば?

 

とかとか私は思うのだけど、まぁそれは置いといて…

 

 

 

電子レンジの話。

 

 

 

 

1つのモノや事柄に、相反する思いを抱く人がいるのは世の常

 

 

電子レンジを便利だと思う人もいれば、

反対に嫌う人もいる

 

 

鍋で温めなおすことを快適だと感じる人もいれば、反対に心地悪さを感じる人もいる

 

 

 

まったく違うものを追い求めているわけだから、接点なんてない

 

 

電子レンジを使う心地よさと

鍋で温めなおす心地よさ

自分の中でどっちが大きいだろう?と考える

 

そこにしか答えはないのです

 

 

 

 

 

幼稚園のお昼ご飯も、

 

毎日の給食を有り難がってる人もいれば、

毎日お弁当であることを有り難がってる人もいる

 

 

 

子どもにテレビを見せることだって、

 

それにストレスを感じている人もいれば、

その間に家事が進んで快適☆って思っている人もいるわけで。。。

 

 

 

 

相手の事情も知らず、相手に届かないところであーだこーだと言ったり思ったりしているなんてもったいない

 

その時間を、その思いを、

別のところに使えばいいのにね

 

 

…って思うけど、電子レンジの話だった(^_^;)

 

 

 

 

結局 何が言いたいかというと、

 

「自分が納得してたらそれでいいんじゃない?」

 

ってことです

 

 

 

そりゃあね、他人がどうやってるか?気になる気持ちもわかる

 

 

 

わかるけど、別に電子レンジ使ってるからって死刑になる世の中でもないし、

 

罰金なんてものもないし、

 

税金が増えるって決まりも今のところない。

 

 

 

電子レンジはあった方が圧倒的に便利だけど、栄養の損失が…  電磁波が…

 

って思うんなら、その分 他でカバーすればいい

 

 

 

「私はこうしたい!」「これはイヤだ!」という強い思いや意思があるのにいつまでもモヤモヤがなくならない人は、

「じゃあ、どうする?」

という問いかけが不足しているような気がします

 

 

 

「じゃあ、どうする?」

って問いかけを自分にして、納得のいくまで答えを導き出している人は、他人のことなんて、世間で言われていることなんて気にならないはずなのです

 

 

 

自分のこと

家族のこと

人生のこと

 

何かモヤモヤがある人は問いかけてみてください

 

 

じゃあ、どうする?

 

 

 

手料理に自信をつけるための、たった1つの揺るがない方法

先日、尊敬するプロの料理人さんに

「料理のセンスがいい!僕と同じ感覚でビックリした!」

とお褒めいただき、感無量でした

 

 

もちろん、私がつくったものをその方に召し上がってもらったわけではなく、あくまでも文面だけで伝え、その反応として返してくださった言葉なので、実際に召し上がってもらったらたくさんのダメ出しをいただくのでしょうが、

 

常々、「味覚は鍛えられる!」と信じている私にとって、「料理のセンスがいい!」という一言は本当に救われました

 

 

「味の素は使うな!」という父の言葉を幼い頃から耳タコ状態で聞きながらも、実際には、大手メーカーのカレールーは使っていたし、焼肉のたれも市販品を使っていました

 

姉弟3人で一袋のポテトチップスを分けっこして食べなきゃいけない現実がイヤで、

「大人になったら一袋全部 1人で食べるんだ!!」

と心に誓い、

 

マーガリンを塗ってグラニュー糖をかけたパンを食後に2枚も食べていた高校時代を過ごし、

 

「仕事が忙しいから」と理由をつけて、コンビニおにぎりとカップ麺でお昼を済ませていた私が、

 

こんなにたくさんの人たちから

「なおみさんがつくったご飯が食べたい!」

と言ってもらえるほどのものがつくれるようになるとは自分でも驚きです

 

 

 

いや、そんな過去を過ごしてきたからこそ、

「味覚は鍛えられる!」

と強く思うのです

 

 

 

 

人は

「美味しいものを食べたい!」

という欲はあります

 

 

マメな人は

「美味しいものをつくりたい!」

という欲も出てきます

 

 

だから、1つの食材を目の前にしたとき、

「これで美味しいものをつくりたい!」

「どうやったら美味しくできるかな?」

と考えがちです

 

 

となると、多くの人は、

素材を触りまくる

調味料を入れまくる

という残念な行動に出やすい

 

 

“自分の手で美味しくしよう” とするから。

 

 

 

 

その行為や想いが、なぜ「残念」なのか?

 

 

 

答えはたった1つ

 

 

素材の味を無視しているから

です

 

 

素材の味を見ずにあれこれやっても、出来上がりは素材の味が消えてしまっている場合が多いのです

 

 

 

調理工程で素材の旨みが消えてしまったり、

調味料の入れすぎで素材の味が隠れてしまっていたり…

 

 

 

 

この1〜2年ほど、毎日のご飯づくりで心がけていることがあります

 

 

それは、

 

いかに手を加えないか?

 

ということ。

 

 

 

そのことを頭に入れておくと、五感が鍛えられます

 

本当の意味での「手抜き」ができます

 

『たったこれだけで、こんなに美味しいものができた!!!』

という瞬間が増えます

 

 

同時に、巷の料理レシピがやりすぎなことにも気づきますが(^_^;)

 

 

f:id:y_naomix:20170526061758j:image

(↑調味料は煮豚の煮汁だけという、昨日のラーメン)

 

 

 

私の講座では、いつも「五感を鍛える大切さ」をお話ししています

 

 

調味料の量だけじゃなく、

野菜の茹で時間

炒めものをつくるときの具材を加えるタイミング

お肉の焼き上がり具合なども、感覚でわかって欲しいのです

 

 

野菜の茹で時間もお肉の焼き上がり具合も、質問されるまではあえて言いませんが、質問されてもすべて「テキトー」としか答えません

 

「○分茹でます」

「△度で◇分焼きます」

と言うと、その数字だけを追ってしまうからです

 

 

なんでもかんでもマニュアル化が進んだ今、明日の命をつくる料理でさえもマニュアル化しないとつくれない人が増えている

 

30〜40代の女性でも非常に多い

 

 

そんな人に言いたい

 

自分の感覚を信じて!と。

 

 

いつもイマイチ味が決まらない人

もっと手軽にご飯をつくりたい人

調味料の減りが早いと感じている人

本当の「美味しい料理」をつくりたい人

 

そんな人は、

いかに手を加えないか?

やってみる価値はあります

 

 

 

どう味付けするか?

の前に、

素材の味を確認してみてください

 

 

味覚を含む五感はまだまだ鍛えられます!!!

私が子ども料理教室をやらないワケ

あちらこちらで見かける、子ども料理教室なるもの

 

子どもに、ご飯づくりの楽しさや、食事の大切さなど、いわゆる「食育」を目的としているところが多い

…というか、すべてがそうだろうと思う

 

 

 

「なおみさんはやらないんですか?」

と時々言われることがある

 

 

でも、私はやらない

 

 

 

なぜか?

 

 

 

子どもは、親次第でどうにでもなると思うから。

 

 

◆ご飯をつくる楽しさ

◆食事の大切さ

◆食とカラダとメンタルの結びつき

◆命をいただいているという実感

◆「いただきます」「ごちそうさま」の意味

◆味覚を研ぎ澄ませることの大切さ

 

これらすべて、親から十分すぎるほど子どもに伝わる

 

 

わざわざ言わなくても伝わるものもある

 

 

 

他人を介さなくては伝わらないことなど、ほとんどないと思っている

 

特に親子関係は。

 

そして、中でも、子どもが小さいうちは。

 

 

 

親がご飯づくりを楽しめていなければ、

 

親が食事の大切さを理解していなければ、

 

親が食とカラダとメンタルの結びつきを実感していなければ、


親が命をいただいているという事実の認識が薄ければ、


親が「いただきます」「ごちそうさま」の意味を実感していなければ、


親が味覚を研ぎ澄ませていなければ、

 

子にどれだけ言い聞かせても、他人を介しても、そこにどれだけお金を費やしてもすべては無意味となってしまう

 

 

 

「うちの子、便秘なんですよ…」

「うちの子、甘いものがやめられないんです…」

「うちの子、好き嫌いが多いんです…」

そう言う親御さんは多い

 

 

このほとんどの場合、親自身が整っていなかったりする

 

 

 

「子どもさんのことが気になるのはわかります。でも、まずはお父さん・お母さんから整えていきましょうね」

と話すのが毎度のパターン

 

 

 

子どもに熱心になる気持ちは素晴らしい

 

あれもこれも伝えたい!!と思う意欲も素晴らしい

 

 

でも、それならまず親自身が体験し、実感し、楽しんで、自らを鍛える方が先だと思う

 

 

 

親が楽しそうにご飯をつくっていれば、子は自然に興味を持つ

 

親が食事の大切さを理解し、実感していれば、子にも自然と伝わる

 

親が心を込めて「いただきます」と「ごちそうさま」をしていれば、子の「いただきます」や「ごちそうさま」も変わってくる

 

親が素材の旨みを十分に感じられるご飯を作っていれば、その味がその子のスタンダードになる

 f:id:y_naomix:20170522110358j:image

 

 

子どもを変えたいなら、まずは親が変わること

 

 

だから私は子どもより親となる大人を対象としているのです

 

 

 

子どもが初めて出会う大人は親です

 

 

親の常識が子の常識になります

 

 

すべては親だからです。